嫌いだって力いっぱい言っていた

嫌いだと力いっぱい言っていた。
それは、たぶん、長いこと、嫌いだという気持ちを尊重されなかったから、強く主張しないと自分を保てなかったんだと思う。

だから、若い頃は自分のスペースを確保するために「嫌いだ」ってずっと言ってた。
家を出てからもそれは続いてた。ようやく落ち着いた。

嫌いだと力いっぱい言っている間は、嫌いなものに執着していた。
嫌いなものは見ない、見なきゃ良いじゃない?という人がいると驚愕していた。
嫌いなら嫌いなほど観察したかった。
気持ちが抑えられなかった。

嫌いなものを見ると刺激になるから元気が出た。
そのくらい、ずっとだるくて、疲れてたんだなと思う。

人に依存することが怖くて、依存されることも怖くて、人と距離をとることの方が正しい、正解だと思い始めてから、やっとちょっと余裕が出て、近況を伝え合うくらいのことはやった方が良いんじゃないかと思い始めた。

友だちを頼りすぎても頼らなすぎても、離れすぎても遠ざかりすぎても、ダメで。
大事にすることって難しい。

自分を大事にすることも難しい。

はじめは、嫌いだってずっと言い続けることが、自分を大事にすることの手始めだった。でも、すごくしんどかった。
主張しなくても、わたしを尊重してくれる人を集めることは、自分の意見と違う人を認めないこととも違うって、いろいろ考えて思うようになった。
尊重されることと、異論を認めることは両立する。
わたしは脅されていた。
異論を認めないと成長しないって言われていたけど、成長なんて、しようと思ってするものじゃない。
自然とするものだ。

嫌いだって力いっぱい言わなくても、良い環境になってよかったね。
これからは綺麗なもの、穏やかなもの、心地よいものに囲まれて過ごしていける。
嫌いなものに注意を払わなくても良い。
嫌いなものの刺激で生きていることを確認しなくても、柔らかいもので生きていることを確認できる。

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