生活の質や、QOLについて、本を読んだり文章を読んだりする機会があって、「そうだそうだ、弱者や、病人も快適に生きる環境が大事だ」と思っていたけど、自分の環境について改善する気にならなかったんだよね。
自分が困っていると思ってなかった。
自覚がないから改善もなかった。
自分が弱者だとかマイノリティだと思ってる範囲が違っていたから、どうしようもなかったというか。
対人関係とか、服装とか、感覚過敏には困っているとか、外出できないという悩みがはっきりしていたのだけど、「家の中の快適さ」については頭が回らかったというか。服装も「社会的な服装」には悩んでいたけど「自分を楽にする服装」「あったかい服装」「心地よい服装」など「嫌なことを避けることはやっていた」けど、「心地よくするための前向きの改善」はしていなかった。
友達に「それ困ってるよね」「こういう解決策があるよ」とやさしーく言われて分かった。
でも「どうしてわかりきったことで手をこまねいているの」と言われると困る。
難しい話なのだ。
人の快適さをどうのこうの言う前に自分の快適さをどうにかしようと昨日から思っている。それはうさぎちゃんと会話して「それでいいんだよ」と言われたことやヘルパーさんに「一日で一番過ごす場所にお金をかけることは悪い事でも贅沢でもない」と背中を押されたからだ。
自分の住んでいるところにお金をかけることに罪悪感があった。
でも、掃除をしやすくしたり、インテリアを改善したりすることに意味はあるんだなと、片付けをして思った。
今まで片づけが困難だったのは、場所をいちいち考えて、しまう、という二段階があったから。
場所が決まっていたらしまうだけなのでわたしにもできそうだ。
片付けの頭脳労働部分を毎回しているから、すごく疲れるし、入れるものがごちゃごちゃしてしまう。
この場所にはこれを入れるということを決めていないから「今日はここが開いているからここにしまう」というような行き当たりばったりだった。
衣食住のなかでなぜか着るものや住むことはけちらないとと思っていた。
だけど、食べるものを少なくしたらやせたし、着るものや住むものもストレスに大きくかかわりがあるから、刺激を減らすために、大いに着手すべきと思った。
だから、生活の質というのは、他人事じゃなかった。
わたしのことだった。
わたしは十分に困っているんだけど、困っていることが「死にたい」「消えたい」に結びつきやすく、「メンテナンス」「改善」という思考になりにくい。
だから、友達にこまめに連絡して、困っているかどうか自体をチェックしてもらう必要があるのだと思った。
一緒に誰かと住んでしまうと、その人自体が「困りごと」になったときに、簡単に追い出せないので、しばらくは一人で暮らして、何がどう困りやすいのか観察したい。
埃だらけだったり雑然としていたりするとストレスがたまる。
キッチンも片付いていないと料理がしにくい。
だから、きれいに保つと楽だ。
そういう仕組みだ。
それが生活の質なんだ。
簡単に片付けができて、簡単に掃除機がけできる環境をする。ものを取り出しやすくすr。
これが片付けの良いループなのだ。こういうことをすると、効率が良い。
効率が良いことを「生活の質が良い」というのだ。
生活の質が良いということをどんなことかわからなかったけど、簡単にいろんなことをできるようにするということだとわかりやすい。
家事を簡単にできるようにすると住環境が快適になる。
人を呼びやすくなるし歩きやすい。
ものが床にあると歩きにくいので、家の中ですら歩くのがめんどくさくなる。
これは良くない。
家にいる時間が長いから、簡単にいろんなことをできるようにしたほうが良い。
ものを取り出しやすくするのは大事なことだなと思った。
そうしたら、ものをしまいやすくなるのだ。
掃除機もかけやすくなるので、億劫じゃなくなる。
なんて素晴らしいのだ。