食べることにたくさんの意味が

食べることにたくさんの意味があった。

食べないと具合悪くなると思ってた。
そして、寂しいときや心細いときや、疲れたとき、暇な時に食べていた。

食べていたら安心、って思ってた。

衝動みたいなものがあったし、食べないと眠れなかった。明日のこともわからなかった。
何か憑かれたように食べてた。

今も、どか食いはする。けど、何かにはまって一日にこれを絶対食べないとだめだっていう食品はなくなった。
今しか食べられないっていう切迫感の中で食べていた。

今は、食べなくても大丈夫、って思う。でも、心配だからサプリは飲んでる。

親から感じる愛情の源泉が、食べ物にあったから、親離れしたときに食べ物にすがってたんじゃないかなと思った。
今は親離れ完了したんじゃないかな。

あんなに食べるとおなかも苦しかった。いいことがなかった。

今は白菜煮て食べるとかそういう、普通の食事をしている。食べなくても結構大丈夫なんだと分かってきたし。
野菜食べてたんぱく質とって炭水化物少しとってたらいいんだ。簡単だった。

今は水タバコにはまっている。
セッティングが難しくて、煙でなくて、試行錯誤した。密閉することが大事なのね。
そして、葉っぱのメーカーによって、セッティング成功率かなり変わる。
もわっと煙がたくさん出ると達成感があってうれしい。体に悪いんだろうけど、体に悪くてもいいから今それやりたい。っていうね。
タバコほとんど吸ったことなかったから、すごく酔っぱらう感じになるニコチン。
食べ過ぎることと水タバコとどっちが体に悪いのか知らないけど、でも、いいんだ楽しいから。食べているときには時間を慈しめていなかった模様。だから。
ニコチン体に悪いよね。知ってる。
依存対象が変わっただけ。

いろいろカスタマイズしたり、はんだでつけられている部品を取り外そうとしてはんだごて買ってきて、でもペンチ忘れたからまだ取り外せていない、とか、今度はクレイトップをいいのに変えたい、とか、ホース変えたら快適度が全然違うとか、フライパンを敷いたら、炭が落ちることの被害が減ったとかそういうどうでもいいんだけど、わたしにはどうでもよくないことがたくさんあって、これって趣味って言ってもいいんじゃないかとか。

音楽を聴くことも、映画を見ることも、本を読むこともできないくらいの状態がずっと続いていたけど、今は少しなら見れる。
ので、時間を過ごす方法がだいぶある。
だから、食べなくても大丈夫になったのじゃないかな。

夜には寂しさが耐え難くてその時間を生き延びるための過食だったのだと思うと、その間の私自身のこともいとおしい。
ずいぶん自分のことを馬鹿だと思ったし自分の身体も愛せなかった。
でも、生き延びたんだよねあの時間を。と思うと、なかなかうまくやったんじゃないかなって。
うまくはやってないけど、がんばったんじゃないかなって。

死にそうなときに「勝手にしてください」と電話をガチャ切りされたりとか、会うと動悸がするから会いたくないと言われたりすることとか、びっくりしたけど、人に言えるようになって、ショックを、右から左に流せるようになったから、食べてためることなくなった。
あれ、結構人付き合いうまくなったんじゃないの?

コミュニケーションに問題があっても、心がこもっていたら大目に見てもらえるとか、わかってくれる人を探すこととか、大事に思うこととか、そういうの、できはじめてるんじゃないかって。
食べることにたくさんの意味を持たせなくても生きていけるんじゃないかって希望が。ちょっと。ある。
ダイエットと、散財を防ぐの、簡単だよって言われた。そうか、簡単なら、わたしにもできるかもしれない。

c71の著書

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