因果の話

こうしたから、そうなったんだ、という風なのと逆に、今こうなのは恐らくこういう失敗、瑕疵があったんだろう!というような人はいる。責め立ててくる。
正しくいきることで傷を避けられたらいいけれど。

人の傷を見て、なにか正しくないことをしたから、そうなったんだ、といってくる人。

困っている人に、こうしたらいいというだけの人もいる。こうしたらの部分ができなくて困ってるのに。できないことはできないのに。

正しさの人は決めつけるのが早い。そして、自分の意見以外の情報を受け入れない。

傷に因果があったとして、その因果をなくせば結果がなくなるなんてことはありえない。

辛いながらも生き抜いてきて、その状況の精一杯の選択をあと知恵で判ずるのはいつだって卑怯で誰のことも楽にしないと思う。

こうしたらこうならなかったのに、と嘆く権利は本人だけにあって、そしてその結果と共に生きていかないといけないのも本人だから、失敗者というレッテルをはるひとは、なにも傷がないのかもしれないけれど、大切なことも刻まれていないのだと思う。
因果なんて避けようもないから、因果を除去したら結果もなくなるなんてこともない。

結果を避けられなかった人は愚かで、結果を避けられたら賢いという人は運が良いかチャレンジしないかどちらかだろう。

正しいとか正しくないとかは結果だけで決めることはできず、すべての経緯で判断すべきだ。
結果がすべてなんて幼さは捨てるべきだ。

努力したから許してほしいということではなくて、まあまあの現実で生きて走り抜くということ。

こういう結果だからこの人はダメだと決めつけることも完璧主義だ。

完璧主義は未成熟だ。

病気はどんなに頑張っても治ることがないから、いつまでも正しくないことをしてるから病気なのだ、これをすれば治るのにしない怠け者めとそしりを受けやすい。

分かりやすく結果が間違っているから、すべてを否定しやすいのだ。

人を否定するときもちよくなるひとはいるから、そういう人を避けないといけない。

病気の間はずっと間違ってるところをあげつらわれてしまう。

病気じゃなかったら自由にしてても言われないことも。

そこから脱しても体に何かの傷跡は残るし、なぜの対象にもなりやすい。

ぶしつけな人はいるものだ。

病気でもなんでもハンデのある人は深い穴からのスタートだから見通しがなにもつかない。

そういうことをわからない人はいるから残念だ。

生きていてチャレンジしたら失敗はセットで心にも体にも何かの傷は刻まれる。

傷はその人が生き抜いていた証だから。
誰もなにもおとしめてはいけない。

それは卑怯なことなのだ。
すべての条件を総動員して、つかんだ現実はその人のものだから肯定するしかないのだ。

c71の著書

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