男女間の”役割分担”が成立するときは、それが交換可能かどうかが必須になります。交換可能ではなかったら、それは”役割分担”ではないでしょう。
わたしの家でも、平等ではないです。それは、わたしのほうが賃労働でもらえる単価が低く、労働時間も短いからです。だから、わたしは、家を維持するためには、伴侶に賃労働の主たる担い手になってもらい、わたしが家事の主たる担い手になるしかありません。選んだ結果ではありません。家事労働することを自発的に選ぶことができません。それは、伴侶もそうです。
家の中の社会は、家の外の社会が反映されています。家の外の社会が、「男のほうが働きやすい」社会である以上、家の中でもそれを踏まえた社会にならざるを得ません。
「女性は出産、男性は力仕事(狩り、お金を稼ぐ)を担当するのは、役割分担だ」という言い方をみます。
でも、力仕事で人はすぐには死なないけれど出産ではよく死にます。わたしも選べるなら、出産より力仕事のほうがいいですね。私の場合、母子ともに危険になり、ほぼ三日にわたる陣痛のち、カイザーになりました。カイザーって、おなかだけじゃなくて臓器も切るので痛いです。医者が腕を肘まで入れて臓器から赤ちゃんを引っ張り出すんですよ。引きはがすときにべりべりと音がしました。そしておなかの中を洗浄します。
だから痛いけど、心無い助産師に「切ったら痛いのは当たり前だから我慢して」と言われました。そういう痛みを選びたいか?
伴侶は、私が死ぬかもしれないと思っておびえていました。
比較にならないものを並べるのは詭弁です。
「わたし、出産が怖くて嫌だから代わって」と言ったことがあります。「代われるものなら代わりたいけど」と伴侶は言いました。そうです、代われないんです。力仕事は代われます。ほかの人に頼んでもいいですね。でも、出産は、そうはいかない。(代理母というものがありますが、ここでは話が違いますので)
わたしが小学生の時「女子は掃除、男子はサッカー。役割分担だから」と言われたことがあります。サッカーが好きなわけじゃないけれど、サッカーのほうがいいです。でも、わたしは選べなかったんです。こういうのは、”役割分担”とは言えません。何の役割なんだろう?サッカーって。男子が遊ぶことで、集団にメリットが発生するのだろうか?
集団にメリットが発生しないことは、そもそも”役割分担”じゃないですよね。役割分担という言葉は、押し付けられる側を黙らせる機能を持っています。
女性は出産があるから、仕事をやめるだろうと思われて、賃金が安いため、男女間では、どちらかが仕事をセーブしなければならない時、女性がセーブすることを選ばなくてはならないことが多いのです。そして、セーブすれば、出世できない現状があります。よく、アンチフェミニストが、男は育休を取りたくても、出世できなくなるし、周りが変に思うから取れない、と言っていますが、女性も同じです。出世できなくなります。そして、女性は、賃金が安くなる→家事育児をしてくれ→ますます仕事をセーブせざるを得ないというループに陥れられます。
(余談ですが、女性の賃金が安いと、男性の賃金もつられて下がります。そりゃそうですよね)
こういうのは、対等でもなく、役割分担とは言えません。
仕事か家事育児か、を女性の自由な意思で選べる状況ではないわけです。
女性よりも男性のほうが賃金労働しやすい社会である、という前提があります。だから、アンチフェミニストは「男性が働いて女性が家で支える」ということをいいます。
でも、考え方を変えれば、女性よりも男性のほうが転職先が見つかりやすく、パート以外でも仕事が見つかりやすいので、収入も落ちにくい、だから、男性のほうが転職をして、女性が同じ仕事を続けるというのも同じ状況でありえます。でも、このやり方を選ぶ人はほとんどみません。
差別的な社会状況があるから、それに乗って同じようにふるまうことは必須ではないのです。
そもそも、今は、ダブルインカムが主流になっています。だから、「男が大黒柱」はできません。それなのに、女性がかいがいしく、ハウスキープをして、子供を身ごもり、産み、育てています。そのうえ賃労働をして、男性伴侶の実家のご機嫌伺い、近所づきあいもする。逆はあまりない。それはなぜでしょうか。
わたしが知っている男性は「女性にはかなわない」「女性はこまやかだから」と、家事を女性がすることを必然のように言う人がいます。でも、ハウスキープに関していえば、あれは技能と責任感によって行われるものなので、女性である必要はないのです。
わたしの家では、わたしが工具を使った作業、裁縫をします。重い組み立て家具でも、わたしが一人で作りますし、家電の設置や修理もします。でも、皿洗いと洗濯物畳みは大嫌いなので、それは伴侶が主にします(わたしもします)。でも、どの作業も、得意不得意があっても、お互いに交換不可能な家事作業はありません。普段、これは自分がやり、それは伴侶がやる、ということが何となく決まっていることでも、相手ができない時には代わります。役割を固定化させないことが大切です。でも、固定化してしまいます。社会の差別構造が、家の中にまでやってくるからです。
それは、意思や思いやりや愛情ではどうすることもできません。
「お前は一生、皿洗いだ」と言われたらいやじゃないですか?自分の分だけならともかく。でも、家族を持った女性は、一生皿洗いをします。たいていの場合。
一緒に住むうえで、「気が付いたほうがすればいい」という人はたいてい地雷でした。こちらにとっては、「気が付いたら損をする」けど「気が付かないと家が崩壊する」という感じ。だいたい、押し付け合いになり、負けるのはたいていこちらなんですよね。いつもこちらが気が付きます。もうそこまでいくと「やって」というのもめんどくさい。
「ここ、汚れているよ」と言われる始末でした。気が付いたほうがやるんじゃないのかい。建前も守れないのか、とわたしは頭にきました。
そういう過去のパートナー達は稼ぎもよくないのですが、家の中ではでーんとごろごろ鎮座していました。でーんとしているつもりもたぶんなく、デフォルトがそうなんですよね。稼ぎも悪く、家事もしないならいらねえと思って出て行ってもらいました。でも、彼らは、なぜかがわからないんですよね。説明しても。(なぜかセックスが悪かったのかと考える屑もいました。たぶん、女性は「性欲」で管理できると考える屑だったのですね。お恥ずかしながら、屑って、付き合わないとわからなかったんですよ。あと屑が多すぎます)
説明してもわからないので、役割が固定化されていたのです。分担じゃなくて、わたしが一方的に負担を負っていました。こういうのは、”役割分担”じゃない。”役割専任”?
ごろごろしているのと家の中で立ち働くのとどちらか選べるなら、ごろごろしているほうが良かったです。選べない、というのが肝なんですよね。向こうは選べない状況にもっていくのがとてもうまいのです。わたしにはとてもかないません。いろいろ、精神的に攻撃してきます。「普通」「ちゃんと」とか言って。
わたしが「選べない」のはなんでか、というと、女だからです。社会構造がそうなっています。愛があれば乗り越えられるという人もいますが、構造から言えば、愛も搾取の対象になります。「愛しているならできるはず」という搾取です。
「本当に愛していたなら何もかも捨ててついていく選択もあったはずだよ」とは実際に言われた言葉です。何もかも捨てたら、どうなるでしょうか?
逃げる力もなくして、うまくいかなかったときに、誰も責任を取ってはくれません。不幸になった女性は、たいてい自業自得と言われます。それに、わたしの人生は、愛よりもずっと大事なのです。
役割分担、という言葉は、たいてい「パワーの差」をはらんでます。女の子は家事育児ができるように育てられ、男の子にはそこまで教えない、という家庭は多いでしょう。その「できない」ということも「パワー」に含まれます。女の子ならできるよね、と生まれてこの方浴びせられた「期待」みたいなものも抑圧に働くパワーです。
そのパワーというのは、「女性蔑視」に基づいています。女性を蔑視することで、男性が持ち上がります。そして、男性が女性に対して力を持つことができます。これが差別構造です。だから、男性にとって、差別というのは気が付くことができないし、気が付きたくもない、不名誉な事実なのです。男性は「構造の話」をしても、あまり聞きたがらないのは、構造の上部にいるからでしょう。
女性蔑視や女性差別構造がある限り、家の中で、男女間が平等に役割分担をすることはできません。
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