萌え絵には性的なニュアンスがある についているブコメをなるべく見ないようにしていたのですが、300を超えたので、トップ10は見ようかな、と思ってみました。
萌え絵のことを書くと、とても怒る人が多いのがわかりました。
なぜ書くのかとか書いて意味あるのかとか、不毛だとかいろいろ言われていますが、「萌え絵が性的か否か」の前提をはっきりしないと「どのくらい性的なニュアンスがあるか」「今後、それをどう扱うか」という話もできないからです。
下記の記事を読んでへーっと思うところは多かったんですが、
これは一見新しそうに見えるけども、まったく新しくない。つまりオッサン向けのエロ広告とかが、単に虹の「駅乃みちか」とか「碧志摩メグ」みたいなものに置き換えられたにすぎないの。しかも彼らが、旧弊オッサンよりタチが悪いのは、それらの表現について「エロくない!健全な表現!」と言い張ってること。そんな主張は極めて悪手で逆効果にしかならないのに、自分の性欲に気付いていないとでもいうのか?*3
の部分ですね。これは、わたしが認識していることと差がないんです。
萌えというのは、胸がぎゅっとして、きゅーんとして、ドキドキして興奮する気持ち(ちんちんは立たないことも多い)ということだとわたしは考えています。
「萌え」っていうのはオタクジャンルの人たちに与えられた、初めての「欲情語彙」だったんじゃないかなと思う。
この記事は2008年なんですが、そのころのブログには「萌えとは欲情の言い換えである」ということはいろいろなところで言われていました。
ブコメに「トラウマがあるんじゃないのか」「被害妄想」「エロいという気持ちである性欲を肯定して揚げてください」というようなことが書かれていました。
実際には、トラウマや被害体験は関係があるかもしれないし、ないかもしれません。あってもなくても、わたしの言いたいことを読み取る結果が変わるとは思えないのです。普通にとれば「トラウマや被害妄想があるに違いない」というのは「だから、この人の言うことは、トラウマを原因とする偏見があるから聞かなくていい」につながり、結局「トラウマのあるやつは黙れ」というメッセージになります。
「トラウマがあるからオタクをたたくんだ」という意味のブコメを読んだら、トラウマや被害体験がある人は、この問題に言及するのは難しいんじゃないかな。これも抑圧の一環です。
萌え絵を批判する人に対して、「女性として被害を受けた可能性」を出して、その発言の信頼性がないことをほのめかす行為は、萌え絵愛好者が、女性差別構造の維持をしている、という仮説の答え合わせになるでしょう。
「(あなたが)エロいと感じる気持ちを否定しないで」に至っては、「エロいと指摘した奴が一番エロい目で見ているんだ」でしかないです。「女性差別をしていると指摘した人間が一番女性差別している」みたいな詭弁と同じです。こういうのを見ると、対話することが不可能なんじゃないかなとひどくがっかりします。
いつでも、どこでも、「女性の体を客体として見る」というメッセージを発するということは、女性や女性の姿をしている人を委縮させます。主体性が認められないというのは、非常に怖いわけです。主体性を言い換えると「嫌だ」「やめろ」という権利です。人間は「これをしたい」という気持ちと「嫌だ」という気持ちの二つで、自分の領域を認識します。やめろ、と言っても、「やめろ」という意味だと認識されない恐怖を身にしみて感じている人は多いはずです。
これは、わたしの被害妄想じゃなく、「いやよいやよは好きなうち」「本当にいやだったら怒らない(憎まないで)で無関心になる」というような言葉からも、「女性や子供が嫌だと言ってもそれは嫌という意味で理解されない」というのは、一般的な概念だということがわかるかと思います。
女性差別がある社会では、女性は、自由に好きな恰好をすることができません。その一方、女性差別のある社会では、それとは逆に「自由な服装をしているキャラクター(ただし、男性が特に好ましいと思う姿)」が描かれます。その「キャラクター」がどのように受け取られているか見ると、ますます、女性は自由にふるまうことができなくなりますが、消費する立場では、「こういうキャラもいるのだから、抑圧はない」という主張の論拠になります。
女性がなぜ委縮するかというと、
「キャラクター」の姿が、女性の特徴を抽出して、さらに強化している姿であるとします。それが男性にとっての「イデア」であるとわかります。これが問題になっている「性的な誇張」の意味です。
すると、その「キャラクター」が、誰にどのように受け止められているかが、これから女性がどのように扱われるかの前提になるからです。
ダメなのは、「女性はエロい」という視線で消費する構造なんですよね。女性がいわゆるセクシーな姿でいても、それを消費する視線、女性差別構造が悪いのです。そして、女性の姿の特徴を抽出して強化したキャラクターの在り方、それの消費の仕方によっては、それを悪化させるのです。
それを考えたくないからと言って、女性差別があると指摘した人を「女性差別をしている当人だ」というのは詭弁です。
女性が、好きだから着る、というのと同じように、キャラクターがこれを好きだから着る、というのは言えませんよね。キャラクターが自分自身で何かを好きになることはできません。設定上、「好き」ということにはできても、人間と同じように「好きになる」ということはできないのだから。
これからどうしたらいいのか、というと、女性差別をなくし、女性を抑圧する構造をなくしてほしいということです。
だから、それには、どの道を選ぶとしても、表現の一つ一つを個別に性的なニュアンスがあるか、どの程度か、それは、女性を抑圧する可能性があるか、吟味してから、外に出していく、外に出すならどの場がふさわしいかという過程が必要です。
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