説明されてもお礼を言わない男性

Twitterで、バズったツイートのリプライ欄を見ていると、

  • 知らなかったのか、間違った認識を持っている男性に対して、女性が説明している
  • 男性はその説明を理解したようなのにお礼を言わない
  • それどころか、「では、これはどうなんです?」という風に話題を変えていく

という場面を目にする。

なぜなのか。

それは、相手に敬意を払っていないからだ。

女性が何かものを言ったとき、男性の多くは(この注釈をいつまでつけなくてはならないのか、それを思うと気が遠くなる)、「聞いてやっている」とどこかで思っているのだろう。

相手が女性ならなおさらそう思うのだろう。だから、間違った認識を訂正することもなく、謝罪をすることもない。

「女性差別?僕の周りにはありませんねーw」

「もし周りにそういう人ばかりならお気の毒ですが…。でも、だからと言って、男性全体が差別しているとか、主語大きすぎませんか?」

「うちの父は家事してますよw」

というような人が説明されても、よくて「そうなんですねー」という反応で、お礼を言わないので、失礼だなと思う。

相手に失礼な態度をとっても、許されてきた歴史が見て取れる。それが当たり前だと思っている時点で、それは差別者だ。

 

「自分は女性差別をしていない、周りに女性差別をする男性が多いのなら、あなたは見る目がないか、そういう悪い環境に身を置く(ほどレベルが低い)のですね、どうして逃げないんですか?」ということを言う人は良くいる。

「僕はそういうのは見たことないですね」

「性犯罪に遭う女性が悪いっていう人いるんですか…?ああ、服装とかそれは聞きますよね?事件の詳細は聞きますよ、だって、防犯する必要はありますよね?泥棒に入られたくなければ、戸締りしろ、って言いますよね?それと同じことですよね。は?セカンドレイプ?何言ってるんですか、誤解です」

みたいなことを言う男性はたくさんいる。全部同じ人が言う場合もある。

まず、男性は女性差別を目にすることはない。差別は女性に向けられる。嫌だと思うのは女性自身なので、それを目撃したとしても、男性は「文化」「よくあること」「普通のこと」として認識するのではないか。まず、差別だとは思わないだろう。

日常的に行われており、自分の友達、親、そのほかのすべての人がしていることが、特別悪いことだと思えない人はたくさんいる。

部屋の中で、男性が入り口から遠い席に座り、女性が入り口に近い席に座っていたとして、その光景を見て、何がおかしいかぱっと理解できる人が何人いるだろう。

「そこまでして上座に座りたいの?」「別に俺も上座に座りたいわけじゃないし」という人はいるかもしれない。

でも「上」「下」を作られて、常に、そこに座れと言われ、そうじゃないところに座ると「親のしつけが悪いんだな」と言われる世界で、自発的に上座を選ぶ女性はいない。だから「女性は自発的に下座に座る」と男性は認識する。

男性でも、常に、食卓を分けられて、同じ席で食事させてもらえなかったら、苦しくなるのではないかと思うのだけど、絶対に自分の身に降りかからないことを想像することは、難しいらしい。

そうして、女性差別が目の前で起きていても、男性は、認識しない。認識しないので「女性差別はない」という。

性犯罪についても、そうだ。

例えば、男性の医師が暴行され、殺されかかっても、

「期待していたんだろう」「殴られたそうな顔をしていたから」「お金がありそうな服装をしていた」「あの時間、一人で歩かなければよかったのに」「強盗も、元気があってよろしい」「強盗にもお金が欲しいという事情があったんだろ」と言われることはない。

(男性が性犯罪に遭ったと言えば、同じ男性から茶化されて笑いものにされる。それは、男性は、自分も性暴力の対象だと認識したくないから、他人事にして、距離を取りたいという心境によるものだろう。性犯罪に遭った男性は「弱い」から、バカにしてもいいとも思っている。それが「男性の文化」である)

でも、女性は言われる。

家には鍵をかけることができる。家に鍵をかけても、家の人権を侵害することに張らない。

けれど、人間に対して「防犯意識を徹底しろ」という場合、それは、その人の、行動や、働く自由、住居を自由に選ぶ自由を、侵害する結果になる。

被害者に対して、服装や、態度を詮索することは、その人の「その人らしさ」を自由に表現する自由を奪っていることになる。

男性は、そんなことを「してもいい」と思っているから、上記のことを言うんだろう。

してもいい、と思っているのは、性犯罪の被害者が、たいてい弱者だから。

(これで、弱者、と書くと、被害に遭う、女性や子供を弱い人間だと思うのは差別的だ、という人もいる。性犯罪の被害者が女性だ、と書くと、男性も性犯罪の被害に遭う、という人もいる。フェミニストは、女と男の違いにばかり目を向ける、差別主義者だという人もたくさんいる)

 

弱者だと侮るから、モノ相手にすることと、人間相手にすることの違いが判らず、家に鍵をかけるのと同じことを、人間にも「すればいい」と簡単に言えるのだ。

自分が「こうすればいい」という助言ができるという認識も、性暴力に遭った被害者(たいていは女性だ)よりも、自分のほうが賢く、上の立場にあると認識していなければできない。

相手のことを思って、のつもりだろうが、相手のことを思うならば、違うアプローチはたくさんあるのに、それを模索することをさぼっているのだ。

さぼっていても、許されているのは、男性だからである。

人権感覚の欠如がそこから見て取れる。他者に対する人権を軽んじている人間は差別者である。

つまり、女性が発言したことや説明したことに対する態度から、その人が差別主義者だということが、被差別者にはわかるが、差別者は指摘されても認識できないという構造は、相手を自分の同等だと認識できない、ということから発するのだ。それが、説明されてもお礼を言わない、ということにもつながる。

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