身を守るためのフェミニズム

人権感覚を身に着けると、生きにくくなる面も確かにある。

長いものに巻かれたほうがその場では楽なのだ。

そういう処世術を選ぶことができる人もいる。

けれど、人権を侵害されたとき、それを人権侵害だと認識できなかったら、病気になったり、けがをしたり、財産や仕事を失ったり、最悪な場合死んでしまう。

何が人権侵害か、それは学ぶことができる。

人権を守らない、差別的な風土、家庭に育った場合、感覚がマヒしてしまっていて、何が差別なのか認識できない。自分の育った環境や感覚を擁護したいために、「差別なんてなかった」「これは差別じゃない」「文化である」「本人たちも進んで選んでいる」ということまで言うことさえある。

たとえば、男性に、女性が血みどろになるまで殴られたとして。周りが「そりゃ。あんたも悪い」「殴られるようなことをしたのが悪い」「いうことを聞いていたら殴られなくて済んだのに」という場面がある。

その場合、その人の周囲も、暴力に慣れており、感覚がマヒしている。だから、そういう環境で「殴られずに済む」処世術を磨いていっている。殴られる側も、殴られないための正解を模索している。それはある意味で文化と言えるかもしれない。だが、その文化は正されるべきだ。文化である、という釈明は、何の意味もない。

しかし、「殴られないための正解」というのは、殴る側が作り上げることなので、殴る側の気まぐれで、答えは変わってしまう。そうした相手の気まぐれで正解が変わる環境で暮らしていると、自尊心が減ってしまう。自分が殴られることをみじめだと思うと生きていられない。人はあらゆる選択を自分で行っていると思いたいものだと思う。それがたとえ歪んだ環境であっても、自分が選んでいることだと思えば、みじめさは減る。

 

女が選んでしていることだ、女が男を甘やかすから男が助長するのだ、という言い分は、因果を逆転して捉えている。

 

しかし、幸い、人権感覚については、学ぶことで、価値観を変えることができる。

殴ること、意見を言わせないこと、威張ること、モノに当たること、大きな声や物音を出すこと、モノを投げつけること、人の行動を制限すること、それは、あらゆる意味で対等ではない。

違和感をねじ伏せている期間が長いと、違和感に気付くセンサーが壊れる。

そうすると、暴力を振るう相手、差別をしてくる相手、そういう相手を避けることが難しくなる。

価値観をマヒさせたまま暮らせば、その場では楽に、慣れた処世術を使い、それがたまたま通用しなくても、「運が悪かった」「こっちが悪かったから」と思っていれば波風もたたない。

勉強とはなぜするのか。

人に搾取されないようにするためだ。

人権侵害をする相手に合わせて暮らすことは、人に搾取されているということである。性別で役割分担を勝手に決められ、または、本人が自発的に選ぶように仕向けられていたり、それ以外の行動を実質的に選ぶことができないのならば、それは性差別である。

「男性が家事育児をしているので差別はありません」という人がいるが、男性が家事をしていようが育児をしていようが、それはそこに差別がないという証拠にはならない。

フェミニズムを学ぶと生きにくくなる。それは、この世の中が、女性差別を中心にして動いている証である。

女が男の気分を損ねたら殴られるのは仕方ない、という世界で、「これは人権侵害だ」と言えば、「頭がおかしい」と言われるのは、被害者のほうである。

だから、フェミニズムを学べば、生きにくくなるのは当たり前なのだ。

しかし、フェミニズムを学ぶことで、人権感覚が身につくと、「この環境はおかしいので、自分には合わない」と認識することが可能である。致命的な出来事を事前に避けたり、避けられなくても、あとから、すぐに対応しようとできるようになったりする。

「これは、自分の利益にならない」「自分の利益にならないことは拒絶してもいいのだ」と学ぶことは非常に大切なことだ。

人の利益が自分の利益になるとは限らない、ということを、女性は認識しないように育てられる。だから、損をしていても、人のために尽くしてしまう。それが美徳だと信じてしまう。そうしているうちに、死んでしまう。

男性の中には「自分はそんなことは言わない」という人がいるが、そんなことはどうでもいい。実際、「女性差別的な言動をとる」男性がいて、それを支えるバックグラウンドが存在することと、「そうではない男性もいる」ということは成り立つので、反証にはならない。

 

人権感覚を身に着けると、人権感覚を身に着けた人と知り合うことができる。そこで、コミュニティを形成することもできる。

そうすると、殴られず、威張られず、脅されず、けなされず、バカにされず、自分の思うように冒険でき、自分のことを選択できるようになる。

誰もが自分の利を追求する世の中で、戦い方を覚えることができる。

どの性別の人でも、自分は我慢できる、という人でも、次世代の人にその文化を引き継がせないでほしい。自分が選んで我慢していたとしても、その子たちにその文化を継承させることは、やっぱり暴力だから。

自分が加害者になることから、身を守るためにも、何がしてはいけないか、知る必要がある。それが学ぶ意義である。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください