自戒を込めていうのだけど、「いい人と思われたい」ということと、「反差別」とは相性が悪い。最悪だ。
いい人間になりたいから反差別、というのと、いい人に「思われたいから」反差別というのは似て非なるものだ。
反差別をするためには、自分で勉強して、自分の判断で、考えながら行動を改めなくてはならない。厳しい道だ。
そこに人間関係を含めてしまうと、「この人が言っていることを批判できない」「あの人が言っているのだから大丈夫なのだろう」「こういうことをしていると評価されるだろう」と、行動の軸が他人に左右されてしまう。
反差別は、世の中に歯向かうことだ。世の中は、ある種の人々にとって、差別込みでうまく回っている。「社会」にとって、差別は必要なものなのだ。
女性たちは、社会の周縁に追いやられている。女性たちは社会に含まれていない。差別される人間は、社会の一員とみなされていない。それでいて、社会は、差別される人間を搾取しないと、円滑に回らない。
見えなくされていながら、あてにされている。あしげにしながら、おだてられる。
おだてるなんて、安いものだ。正当な「人権」に比べたら。
人権と、人の尊厳、命を軸に考えると、差別はあってはならない。差別は人を殺し、病気にし、貧困に陥らせ、幸福の追求を妨げる。だから悪だ。
世の中のために、というとき、その世の中は誰のものなのか、誰が支配しているのか、誰にとって都合がいいのか、考えなくてはならない。
そのうえで、反差別は口触りのいいっものではいられない。うまくいっている人に対して、あなたの利益をよこせ、それは、あなたのものではない、という行為だから。
人に好かれたい、いい人だと思われたい、そう思うことは、反差別を行う上で邪魔になる。マジョリティにとって、反差別は、いらだたしく、場をわきまえない、無作法なものだからだ。
男が女を襲う時、女がそれを告発したら、男は「おとなしくして、場の空気を読んで、大人の分別を持つべきだ。そうすれば、お互い恥をかかないし丸く収まる」というだろう。世の中はそれを肯定している。告発すれば、女の側が非難される。金目当て、わかってたんだろう、自衛すればよかった、気を持たせたのだろうと。
自衛すればよかったという人たちは、良かれと思って被害者を責める。実際に、被害を防ぐにはそれしかない。加害者を変えることは現実的じゃない。彼らは、被害者が自衛することは現実的だと信じている。外出するときは大人の男性と同伴し、それがだめなら複数で行動するべきだという人までいる始末だ。
「その同伴する男性が襲ってきたらどうする。そもそも、女性の行動の自由が妨げられていることについては?」というような、当然の疑問は、彼らにとって耳障りだ。
つまり、被害者非難をする彼らは「いい人でいたい」から、被害者を非難する。性暴力を振るわない自分でいたい、性暴力を防ぐために何かする自分でいたいから、性暴力被害者を非難する。
何かするのも、真剣に何かしたいわけじゃない。ただ、何かしたというアリバイがほしいだけだ。だから、被害者を非難することで、いいことをしたと思える。自衛をするべきだ、という間違った正論を言うことで、彼らは彼らの認知の中でいい人でいられる。それをおかしいという人間は、彼らの平和を乱す。だから、嫌われるだろう。当たり前だ。でも、それでいいじゃないか?
いい人でいたいという欲望を満たすために、セカンドレイプをする人間がいるのだ。
いい人でいたいという欲望は人を傷つけ、自由や人権を損なうのだ。
もし、あなたが、反差別を行おうとするならば、あなたはいったん孤独を覚悟しなくてはならない。人と仲良くやるのは難しいかもしれない。間違っていることを間違っていると言えば、角が立つ。世の中と折り合いがつかない。
繰り返すけれど、世の中は、差別込みで回っている。
だから、娘を持つ男性が「娘のために女性差別は反対だけど、でも、女性としての役割があることは伝えたい」「女性差別には反対だけど、勧善に差別をなくすことは難しいだろう」ということだって成り立つ。実際にみたことがある。そういう人にどうするべきなのか。そういう人にも、いい人だと思われたいか。彼らは女性差別に興味を持っている。彼らを味方として、育てるべきなのか。
いいや、育てるべきじゃないのだ。女は、女だからと背負わされたケアを、捨て去るべきなのだ。大人は自分で成長することができる。ケアをして、育てたところで、気に入らなかったから、彼らは、フェミニストを恨む。
女性差別を訴えるとき、女性は、女性差別を最優先にするべきだ。ほかの差別のことを考える必要はないとはいわない。
でも、人にはそれぞれに立場がある。それぞれの正義がある。それぞれの利益がある。
だから、自分が自分の主張を第一にしなければ、誰も代わってはくれない。
いい人だと思われることをあきらめよう。孤独であることを受け入れよう。
スタートに戻ろう。
助け合うことはあっても、基本的にわたしたちは、それぞれ一人きりだ。人生を生きる、自分を生きるというのはそういうことだ。孤独なのだ。
生まれたときも死ぬときも一人なのだから。
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c71さん、はじめまして。ゴトーと申します。
たまにブログを読ませていただいてます(^^♪
日にちの過ぎた記事にコメントしてしまい、ごめんなさい。
ちょっと古いですが、カント研究家の中島義道氏の「怒ることの重要性」を説いた記事がありました。
http://bigissue-online.jp/2012/09/13/interview-1/
「大人は自分が怒らないと、若い人に対しても『怒るな!』となってしまう。私は反対に、『怒れ怒れ!』って言います。そうじゃないと、怒りを消す文化が、自分自身の安全のために再生産されていくんです」
今回の記事を読んでいて、ふとこの文章を思い出しました。
これからも応援しております。
くれぐれもお体にご自愛くださいね。
コメントありがとうございます。
古い記事にうれしいです。
カントは読んだことがなくて…
こどもの看病でバタバタしてて返信がおそくなってしまいました。
怒ることはほんとにだいじだとつくづく思います。
体に負担はありますが、いきる上でだいじなことですね。
あとでリンク先のを読んでみます!紹介ありがとうございます。