差別は不公正だからやめるべきだ
これは「女性差別」「女性への犯罪」に初めて気が付いて、第一走者と言ったり、女性に声をあげろと言ったり、女性差別の代弁者になろうとする男性に対して批判する文章です。
(厳密に言えば男性にとってもメリットはないわけではないけれど。女性差別を「女性にとってもメリットがある」と考える人もいる(専業主婦はいい思いをしている、とかね)ので、メリットがあるなしで差別問題を論じるのはおかしいという話でもある)
差別には不利益があるからやめるべきだ、というのは不十分だ。
差別がある世の中は、今、うまく回っている。うまく回っているように思う人は、差別があると言われても「そんなことはない」というだろう。うまく回っていないと思うのは「私たち」だけであって、向こうは、女性が黙って忍従していれば済む話だと思っているだろう。だから、物言う女は余計なことをしていると思われる。
仮に、「差別をすることであなたにも周りにも不利益があるからやめるべきだ」と言っても説得されないだろう。だって、不利益は実際のところほとんどないのだから。
不利益をこうむるのは、基本的には女性だけだ。
「女性差別の不利益は女性が被る」のだから、やめる理由はない。自分の身は痛まない。自分は差別をしているのだなんて思いたい人はいない。認識しなければそれはないのと同じことになる。
差別は、人の尊厳や命を踏みにじる。だからだめなのだ。
差別をやめることであなたにもメリットがある、利益があるというのは間違っている。
利益が得られるなら手段は問わない、何でもいいというたちもいるので、意味がないのだ。
差別に困っていない人は、差別を認識しないでいたほうが楽だ。差別なんてしていない、自分の周囲は、女性差別なんて終わった話だから、関係ないと思っているほうが楽だ。そういう人たちは、差別をすることで得られる利益を手放そうとはしないだろう。本人たちの中では、差別をしていない自分だから。
だから、わたしたちは、彼らを追い詰めるべきだ。味方になってもらいたいと願うべきじゃない。どうしても、差別がダメだと理解しない人に対しては、差別をしているとこのように批判される、不利益を得るのだ、ということを骨身にしみこませるべきだ。
だめだからだめ、いけないからいけない、という原則を持ってもいい。
差別はメリットデメリットで考えるべきではない
女性差別や、「女性問題」に興味を持つ男性に対して、どんな態度をとるべきか。
今、初めて、「女性は、男性に暴力を受け、性暴力を受け、賃金格差があり、社会的に不利益な扱いを受けている」ことに気付いた男性がいたとする。
その男性は「初めて知った!では僕が女性差別を解決する」と張り切る。
そうしたとき、彼らは、女性差別の上塗りをする。
女性の代わりに語り、女性に被害の経験を語るように言う。自分の男性としての影響力を使う。
これらはすべて女性差別だ。彼らはいいことをしていると思っている。自分のことをいい人間だと思っている。
男性は男性であるだけで、構造的に加害者だ。実際、それまで社会的な不利益を是正せず、女性差別を知らず、男性に対して、働きかけることもしていなかった。
差別をなくすために、男性ができるのは、自ら男性に語り掛けることだけで、女性に関わる必要はひとつもない。
女性に被害内容や、経験を語らせることは、暴力だ。それもわからない人たちがいる。
そういったとき、彼らを批判するかどうか、女性たちは迷う。
「せっかく味方になってくれた人を、敵に回すようなことをしたくない。どうにか育てることができるのではないか」と。そんなことは迷わなくていい。
育てる!なんで育てないといけないんだ。
女性たちは今までもずっと「人を育てて」きた。とうに成人した人間を、しかも何の関係もない人間を育てる義理はない。それは、女性に課せられてきた重荷だ。そのものだ。人を育てずに済んでいたら、私たちはもっと好きなことができていた。できてたあろう様々なことを想像してほしい。
男性は、家事をするだけ、育児をするだけでも注目されほめたたえられる。
だから、たいていの男性たちは自分のことを「女性差別をしない、いい人間だ」と思っている。家事や育児をするだけで、どうして褒められるか考えもしない。男性だから、「本当は家事も育児もしないで済む男性でありながら」家事育児をしているから、注目されているという非対称に思いをはせることもない。
差別に気づかない、おだてられて舞い上がっているような彼らはおろかなんだろうかと思うこともある。とてもよくある。どうしてこんなに簡単なことが見えないのかと。でも、彼らはそこまで愚かじゃない。どこかで知っているはずだ。知っていて、手放せないほどの利点があるから、差別に気づかないふりをしているのだ。
はっきりしているのは、「男性問題」を発見し、是正したところで、彼らにメリットはないということだ。メリットがないので、彼らはいつものように今までのように生きることを選ぶ。
では、女性差別を解決すると、男性にメリットがあることを伝えるのはどうか?
メリットによって女性差別をやめろという人たちは、そのメリットが消えたとき、女性差別をまたするだろう。
おだてて、ちやほやして、ほめたたえて「味方」になった人たちが、困難に直面したとき、どんな風に手の平を返すか、わたしたちはよく知っているはずだ。
わたしは、メリットの如何ではなく、「女性差別は不公正なことだからやめる」といえる人間を望んでいる。
感情を大切にしよう
わたしたちは、感情を軽んじられてきた。そして、感情は「女のもの」「女特有の弱点」とみなされてきた。「女は感情的で話が通じない」と言われてきた。どんなに冷静に論理的に話していても、「感情的」とレッテルをはられる。わたしの体が女の形をしているからだ。
男たちは、感情を軽んじ、それでいて、感情的にふるまうので、感情をコントロールすることができない。だから、メリットや利益に目がくらみ、不公正に立ち向かうことができない。それは、彼らが解決するべきことだ。
感情は素晴らしいものだ。
なにか、不公正をしそうになったとき、理屈よりも先に感情がシグナルを送ってくれる。それで、わたしたちは、悪人にならずに済む。素早く判断できる。感情は、生きることに価値を与え、なぜ生きるか、生きるとはどういうものか教えてくれる。感情的であることを恥じることはない。そのうえで、わたしたち女が論理的であることを主張することもできる。冷静である必要もなく。
男性たちは、不公正を許容している。そんな人間に味方になってもらってどうするというのだ。心ある人は、何も言わなくても味方になるだろう。説得しないといけない相手は味方にならないだろう。
差別とは不公正である。それが悪いと理解できない人間に、何を言うことができるだろうか。例えば、殺人にはメリットがない、殺人をしないことにはメリットがある、と、言って説得するばかばかしさに似ている。
女性差別は男性問題である。それだけのことを理解できない「味方」を育てることを放棄しよう。彼らは味方にならない。味方になるとしたら、人間的に成長する必要があり、わたしたちに、それを支える理由は一つもない。メリットがあろうとなかろうと、しなくていいことをする、その弊害は大きい。彼らは被害者に対してさらに甘えてつけあがる。わたしはそんなのは嫌だ。公正であるためには、本人たちが自ら変わる必要がある。私たちはそれを突き付ける必要がある。
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