ナショナリズムとグローバリズムが結びつくのはおかしなことだと思うかもしれない。
グローバリズムは、個人と世界を直接退治させるものだ。
わたしたちは、まず、個人であって、そのうえで地域社会や家族というコミュニティの一員として、役割を持ち、アイデンティティを確立する。
でも、その中間の社会がなくなってしまうと、もう、アイデンティティを保証するものが、記号的な「日本」しか残らない。
たいていの人間は、世界の六十億人のうち、何位くらいの能力の持ち主だ、と突きつけられることを好まない。そして、耐えられない。
だから、自分にカバーをかける。
日本=(イコール)自分にする。そうすると、自分が傷つかなくなる。どういうことかというと、まず、自分の失敗や、「できなさ」は、日本という大きな記号によって見えにくくなる。
そして、「日本スゲー=自分スゲー」が成り立つと、自分が何もしなくても、自分がすごいように思える。
例えば、日本の結弦スゲー=日本の自分スゲーにもできる。努力したのも、結果を出しているのも結弦だが、そこの過程なしに、自分の鼻の穴を膨らませることができる。
逆に、このことも成り立つ。
「日本を批判=自分を批判」
日本が批判されると、自分が批判されたように感じる人はとても多い。それは、不断「日本スゲー=自分スゲー」にしている代償のようなものだ。
わたしは、自分が生きているうちに「反日」という言葉が、死語じゃなくなるなんて思いもしなかった。
そして、これは、
「日本の誰かが失敗したとき=日本の失敗=自分の失敗」にもつながるから、「あいつは、日本人じゃない」となる。
「普通」を「健康な男性」に設定すると、それ以外の人間は「普通」じゃなくなる。
でも、あいつは「普通じゃない」「日本人じゃない」ということをやっていると、なんだか、「自分がすごい」と思えるんだろう。
でも、これには、やっぱり代償があって、「普通」を「いいこと」と思うと、ちょっとでも瑕疵がある人を「あいつは普通じゃない」としていくので、「普通の世界」にいる人が少なくなってしまう。普通の世界にしがみつくのに必死になる。
普通基準は普通じゃない人を普通になれという圧力としても働くし、普通世界にいる人を追い立てもする。
人を数字以外で見ると、「痛み」というものが大切になる。
何がその人に盗っていたいのか、どこからが痛いのか、というのは、人の輪郭をくっきりさせる。
ナショナリストはだいたい人の痛みに疎い。
それは、自分が「日本スゲー」の陰に隠れていて、日本を批判された=自分が痛いになっていて、痛みがあやふやになっているからだと思う。
自分の痛みを認識して、初めて、自分と他人の区別がついて、そのあと、「他人も痛い」ということがわかる。
ナショナリストはその段階に至っていない。
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