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自分にやさしい家事”
具体的な実践部分もあります。片付けはどう考えるべきか、調理はどう考えるべきか。
ヘルパーさんは何をしてくれるのか?
どういう風に家事スキルを身に着けるか。
家事は指示出しも難しいです。
例えば、カーキ色のバッグとって、といっても、カーキ色が分からない人はそのバッグ探せないんです。
お皿洗って、といっても、お皿を洗う範囲が、「洗って、水切りにおいて、シンクを代吹きで磨いて、代吹きを洗う」ところまでなのか「
「皿は洗うけど調理器具は洗わない」
「皿調理器具を洗って、拭いてしまう」
ところまでする人なのか、相手によって違うし、スキルも違うので、他の味方も考えないといけません。
家事やケアをするというっ行為には、両面からの暴力性があります。
ケアをしろ、という強制も暴力です。
また、「ケアをする」ということは、相手を「矯正」することもできるので、権力になります。ケアと引き換えに取引もできる。
療育なんか、全部を否定するわけではないけど、「相手を思い通りにする」という意味では気を付けないといけない。
(今度そのテーマでも書きます。障害をどこまで「世の中に合わせる」か、慎重にならないといけない)
例えば、子供が風邪をひいても、看病をする、しない、で相手を支配できます。
強いように見える相手でも、食事の量や内容で支配できてしまう。
そういう面についても書きました。
一部引用します。
下記の分だけじゃなくて、
自分で自分の生活を工夫するということは、自分で自分をコントロールする、できるんだ、という自信を育てます。
家事とは思想の実践です。ルーチンワークでもあり、仮定を実践して変化する結論を試す場でもあります。家事について、誰もが何かの意見を持っているのは、生きる上でどこまでも軽視することができるからです。家事は、女性や子供の領域でした。わたしの祖父の世代のほうが、わたしの親世代よりも、男性たちが家事をしていたと感じています。家事を軽視することは、女性軽視が前提です。生産性がないという言葉は、お金を産まないという意味で使われてきました。家事の経済的価値が低いのは、経済的価値を設定する性別の人間が男性だからです。男性が「家事は価値が低い」と決め、女性にやらせて「女性は経済的に価値がない」「誰にでもできる」といって、その愚痴の捨て場所になっていたのがわたしたち世代だと思います。 自分にやさしい収納の続編です。 母達は孤立し、連帯することが「家庭」によって不可能でした。社会的な構造が、彼女たちを「自然」「健康」「子供の学歴」に走らせました。彼女たちは、自己実現を社会によって奪われていたからです。唯一、許されていたのが、「素晴らしい家事」をすることだけでした。
前編です。