自由は学ぶことで獲得できる

わたしは、学校の成績が思わしくない人と接点がなかった。
親は、とにかく、わたしを通して人生の実現を図ろうとしていたので、自分が成績が良くてうれしいとか嬉しくないとか考えるよりも、悪い成績を取ってはならないと思って生きていた。
喜ぶなとも言われていたせいもある。

それでも、わたしは本が好きだった。祖母がわたしのために本を買ったり、図書館に連れて行ってくれたりした。
影がどうして長くなったり短くなったりするの?と「影を盗まれた少女」という祖母が買ってくれた本を読んで疑問に思った。
どうして、1+1は2になるのか?

大学に入って疑問を持てることは素晴らしいと学んだ。
塾の仕事についてからもいろいろなことを学んだ。

最初の生徒さんは、中学二年生になって「I」が何を意味するか知らないくらいの学力だった。その子が
「教科書に何が書いてあるか知りたい」と言った。
わたしはひどく心を動かされ、かき乱され、とても崇高なものに触れたと感じた。それがわたしの原点だった。

彼女は豊かな世界を持ち、人にやさしかった。
良い大学に入る人は往々にして、「テストが得意」な人である。
テストが得意だということと、賢く、知恵があることは別なのだということ。

彼女はそれから頑張って、普通くらいの高校に入り、課目によっては学年一位すらとった。

テストが得意かどうかは、単に、運が良いかどうかくらいの意味でしかないと心から思った。

「知りたい」と思うことは、貴い。
学校教育では、興味が持てないことでも、多くの分野の知識に触れることに大いなる意味がある。
学校は素晴らしいと思う。
親がろくでもないとしても、学校に行ければ、その間は、「普通」の生活ができるから。

ただ、こぼれてしまう子もいて、そこは改善していかないといけないけれど。

わたしは、テストが苦手でも学ぶことが好きだと自負していたけど、本当にテストが苦手な子を見て、自分の狭さを知った。

ある子は「先生は怒らないで」と言った。
わたしはそれ以来どの生徒さんにも一回も怒っていない。
それは、その子の言い分に納得したからだ。
「先生が怒っても勉強しないし、怒られても成績は上がらないし、怖いと来たくなくなる」
ああ、その通りだなと思った。
じゃあ、わたしは、勉強したくなるようなことを教え、学校の成績に直結しなくても、この単元からどこまで広がるか、遠いところまでの景色を見せよう、それがわたしの役割なのだ。

わたしは、遠いところに行きたかった。それは心の中にある。
子供を預ける保育園の目標に「自分を好きになる」「心と体で感じて、自分で世界を広げる」ということが挙げられていた。
わたしも一緒に学びたい。

わたしの親はろくでもなかった。
わたしは円満な家庭を知らない。
だけど、円満な家庭を作ることができる。
わたしたちは学べる。過去から自由になるために学ぶ。
学ぶことは、わたしを自由にする。
思い込み、しがらみ、苦痛から、解放するのは、知恵でる。わたしは学ぶことができる。そして、自由を得る。

c71の著書

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