「嫌な席だったら、帰る」という助言を実行して六年たちます。
「帰ること自体は、誰に対しても攻撃にならない。何も言わずに帰っても大丈夫。あとで、調子悪くて、帰ったって言って、悪く思う人とは合わないから、それまで。わかってくれるなら、弁解も聞いてくれる、誤解があっても話しあえる。
帰ること自体で取り返しがつかないことになることは絶対にないけれど、嫌な席に居続けて、判断が鈍って取り返しのつかないことになることはある」と言われたから、その通りだと思って実行しました。
先日の同窓会でも、嫌だと思って帰りましたが、わたしの味方はちゃんとあとから、わたしのそばに来てくれました。
一緒に時間を過ごして、ご飯を食べるだけで、心が安らぎなごみ、励まされる相手というのは、必ずいるのだと思いました。
同窓会に行くと、やっぱり、年収が一千万円超えている人がごろごろいるので、二人で自信を失いました。
でも、やっぱり、何もない自分だと思っても、幸せな部分というは、今、築けているよね、という風に励まされました。
年収が高いことを話すのでも、さらっと伝えてくれて、こちらも、「本当に頑張ったね、すごいね、よかったね」と心から言える相手と、「そんなん言われても困る」と落ち込む相手とがいるので、やっぱり相性があると思います。
三十過ぎると、今まで健康で順風満帆にいっていたひとも、人に言いにくい苦労が出てくることもわかりました。
そういう苦労を、種類は違えど、話せて、すっきりして、励まし合える人間が、細く長く続いているのは、本当にありがたいと思いました。
もし、年収が高い子でも、何かあったら、そうじゃなくなる場面もあるだろうし、でも、そういうときに、そばから離れず、力になりたいと思える相手と付き合っていきたいと思います。
人からうらやまれるような権力や名誉を持っている人でも、人生の後半になると、人への嫉妬や恨みで頭がいっぱいになる人もいて、昔は、それでも「地位と名誉とお金があるのだからうらやましい」と思っていましたが、今では、そうは思えません。
自分自身、状況が変わらなくても、躁鬱で、心の状態が変われば、幸不幸なんて、オセロみたいにひっくり返ることがよくあります。
全部が心の持ちようだとは到底言えませんが、それでも、自分なりの矜持を持って暮らしたいと思います。
勉強してよかったと思うことは、知識を増やせたこと、視点を増やせたこと、そして、自分の周りの世界に秩序をもたらせたことです。
世界は混とんに満ちていて、それだけに、傷つき疲れることも多いです。
けれど、勉強することによって、人間の非力さを知り、無能さを知り、そして、自分の限界を知ることで、逆説的にですが、常に向学心を持つことの大事さを知りました。向学心を持つことで、混沌に流されそうになる自分を、知識や知恵が、錨のようにつなぎとめてくれるのです。
生活の面では、自分の身の回りの秩序を保つことがどれだけ大切か気が付けました。
わたしは、知識を得て、世界を広くする心地よさを知っています。そして、人を育てる仕事をしています。
わたしは、心地よさ、気持ちよさ、自分のなりたい姿になる工夫を勉強を通して、伝えていきたいと思います。
勉強ができても、心が貧しければ、それは、わたしにとっては意味がないです。
勉強は、その楽しさ、もしくは、なりたいものになるための手段であってほしいと思います。誰かを踏みつけるための道具に堕してはならないと思います。
高校生になっても、本を読解する能力に欠けている子はたくさんいます。
日本語が母語だからといっても、読む力を使わなければ、その力は育たないままです。
だから、語彙を増やし、コラムを読ませて、論説文を読む力を育て、大学に行くにしても、教科書や専門書を読み砕ける力を育てて、卒業させたいと願います。
知識は、自分に害をなす人を、遠ざける力があります。
マルチ商法やネットワークビジネスに騙されることも、知識があれば、逃げられます。
DVやモラハラをする相手を恋人にしないようにすることも、知識があれば、かなり遭遇する確率を減らせます。
嫌いな人は嫌い、好きなものを好き、自分は大切なものだ、という感覚があれば、その人たちは、あえて近寄ってくることが減ります。
空気を読めない、協調性がない、という言葉に負けてしまえば、モラハラの餌食に遭いやすくなります。
でも、空気が読めない、協調性がない、という言葉に対抗することもできます。それには知識が有効です。
本を読むことです。正しい本を選び、本から本へたどる方法を知ることが、身を守ることにつながります。
わたしは、七年間付き合った彼氏と結婚を考えていましたが、別れました。
時間にルーズで、「仕事じゃないんだから」がいいわけでした。
半日でも遅刻する、連絡をしない、SNSのほうがわたしよりも大事(ほかにもいろいろありましたが)、そういう点で、わたしを尊重していないのは明らかでしたから、わたしはさっさと別れるべきでした。
それでも、別れたときに「もったいない」と言われ、それもあり、わたしは、今のパートナーと出会うまで、ずっと「あの人と結婚していたら、少なくとも、もう子供はいたかもしれない。彼も変わったかもしれない」と引きずっていました。
引きずりながらも、出会いを探し回って、みっともなくあがいたのは、それから脱却するためによかったと思います。
精神科の主治医が「赤い糸をネットで探せばいい。ネットは世界中からパートナーを探せる。自分の周りで街コンだのなんだのしても、一度に限られた人としか話せず、自分のことを知ってもらうのも大変だ。あなたは文章が得意なのだから、それを使って、ネットで自己開示をして、それでもあなたがいいという人が出会えたら、その人にここに引っ越してきてもらえればいい。引っ越すくらいの条件を乗り越えるくらいの情熱がある人じゃないと、結婚生活もうまくいかないから、ちょっとくらい、そういうハードルがあったほうが、嫌な人を避けることにもなるよ。それに、案外近くにいるかもしれないし」と五年前言ったことは、現実になりました。
今のパートナーは、わたしのブログを全部読んで、そして、わたしに会いに来た人です。
このブログは、人と出会うためにしたものではなかったのですが、それでも、たくさんの人と出会い(そして別れ、反目、憎しみも)を生み出してくれました。
人に嫌われる理由が、自分なりに理由があればいいと思うのです。
自分が生きるためにどうしても譲れない部分が、人をいらだてるのだとしたら、その人は、自分とは合わないことがお互いにわかってよかったというフィルターとして機能します。
だから、自分が妥協できる範囲がどのくらいか、見極めることが大事です。
髪ははやすことができないかもしれないくらい、自分を変えるのが困難な部分が必ずあって、でも、それがかえって魅力に結びつく相手がいるかもしれないのです。