セクシャルマイノリティについて、思うこと

わたしがセクシャルマイノリティについて、初めて認識したのは、「クィア」という言葉であった。
クィアジャパンという雑誌があることを、上野千鶴子先生の論文で知った。
だから、「クィア」な人がいるんだなと思った。
新井さんの漫画、「性別がない」では、ひげを生やした女、ちんこのある女、女になったり男になったりする体の持ち主がいることを知った。


そして、ずいぶん年月が経ってから、トランスという言葉や、セクシャルマイノリティ、アセクシャルという言葉を知った。
ゲイという言い方をしたほうがいいことや、レズビアンときちんというべきだということも知った。

クィアジャパンの著者は、たとえ、偏見がある記述でも、「論文」に「ゲイ」が取り上げられたことをうれしく思ったと書いていた。存在を肯定され、公に認知されたと。(そういう時代だったということ。ないものと扱われているような時代背景だったから。今では当然状況が違う)

わたしが、独学で勉強したのはもう十年以上前のことだが、そのころ、フェミニストと呼ばれる人たちは、熱心に「クィア」な人と関わろうとしていたように思う。
「比較文化」を研究している先生に、ゲイ男性を紹介され、話したことや、迫害されてきた人種の人と話せたことはいい経験になった。その先生とは袂を分かつことになるが。

だから、わたしは、ネットで、セクシャルマイノリティの人の発言を見るまでは、フェミニズムと、セクシャルマイノリティは、親和性が高いと信じていた。ジェンダーの問題と、セクシャリティは、とても近いところにあるから。

だけれど、トランス女性、トランス男性が「性的規範」に非常に忠実な人も多いこと、ゲイカップルや、レズビアンカップルが結婚の権利を求めている人もいることを知って、わたしはがっかりしてしまった。
それらは、わたしの打ち壊すべき課題だったから。
戸籍制度も、性的規範も、女性差別の温床だ。

シスヘテロが、何も苦労しなくても、結婚できるのに、そうじゃない人にはそれができないのは、不公平だという意見を見ても、もやもやしていた。しスジェンダー、ヘテロには、結婚を求めるなとは言わないのにという意見だった。
わたしの知っている限り、フェミニストたちは、結婚をボイコットする人たちもいたし、結婚制度に反対をしている人もいたから、それは事実誤認だと思った。だから、もやもやした。

わたし自身は、事実婚を選んだ。それで、わかったのだけど、異性愛の場合は、今までいろいろな人が戦ってきてくれたおかげで、どこにいっても、事実婚だということを話しても、夫婦として扱ってくれる。帝王切開の時のサインも、無事、姓の違うパートナーが書いた。姓が違うことについて、誰も事情を聴かなかった。
事情を聴かれたのは、福祉の支援をしてくれる役所の人くらいだ。それで、ようやく、わたしは、「家族」を作るうえでの自分の特権性に気づいた。同性愛者は、きっと、こんなにすんなり、家族扱いされないから、結婚という形を求めるんだということに気づいた。

また、トランス女性やトランス男性が、性的規範を強く身に着ける理由もわかった。
ツイッターで、トランス女性に「おっさん」と言った人がいたのだ。こんなひどいことをどうしていう人がいるのかと思った。
本物の女性かどうか、わたしは、判断されない。女らしくないとののしられたり嫌がらせされたりすることはあるが、女か自体は疑われない。それは、誰が見ても女だからだ。
でも、男の体を持っている人は、本物の女かどうか、振舞いから採点されてしまう。
だから、「真の女」の基準を探してその通りにふるまうとしたら、規範が必要になるんではないかと思った。

また、トランス女性は、たぶん、成長する間に、「女性ならではの嫌な思い」にはあっていない。
女の児童として暮らしているときの、あらゆる差別を、実際に受けていない。
(最初に性被害を聞いたのは、年中の時。近所のお兄さんが侵しをくれる代わりに触ると言っていた子がいた)
もちろん、セクシャルマイノリティとしての差別は受けていたと思うが、わたしの経験とは異なるものだろう。
そういうことに思い当たった。

ゲイは、男性だから、男社会の恩恵を受けている。
だから、女性差別についてはもっとぴんと来ないだろう。

そういう意味で、セクシャルマイノリティだからと言って、フェミニストであるとか、フェミニズムについて詳しいとは限らないのだ、ということがわかった。あえていうと、ミソジニーのセクシャルマイノリティもいるのだろうと。

それは、フェミニズムの本を通して、セクシャルマイノリティという存在を知ったわたしにとって、衝撃だった。

でも、考えてみれば、セクシャルマジョリティの多くは、女性嫌悪であり、女性差別者である。

わたしの知る限り、フェミニストたちは、セクシャルマイノリティのことを考えることで、フェミニズムについての考えも深めてきた歴史がある。
(もちろん、その過程で、いろいろいいことも悪いこともあったと思う。前述した上野千鶴子先生の論文にもゲイへの偏見があった)

だからといって、彼らがフェミニストであることを求められないし、必要以上に彼らに期待しないこと、つまり、セクシャルマジョリティへの同じくらいの失望で済ませるべきだ、と思った。
だって、わたしは、フェミニストだが、セクシャルマイノリティに対して、関心もあるし、学びたいと思っているが、一生、きっとわからないこともあって、間違い続けるだろうから。
わたし自身も、クィアと言っていい部分がないわけじゃない。でも、わたしがわかっているのは、わたしのことだけだ。
わたしのことだって、全部わかっているわけじゃない。

フェミニストでも、セクシャルマイノリティに対して、暴言を吐いたり、差別いたりする人がいる。

だったら、セクシャルマイノリティに、女性差別する人がいても、当たり前だろう。

それがいいと思っているわけじゃない。

差別は悪いことだから。

どうして、こういう危うい記事を書いたかというと、自戒のためであり、わたしの途中経過を記したかったから。
こういう属性の人は、こういうことをしないはず、思わないはず、詳しいはず、という思い込みは、道を誤る。
だから、思い込まずに、行動したり、話したり、したいな、と思った。
(わたしは、小学四年生まで、いつかちんこが生えてくると信じてずっと待っていた)

健常者にも、障害者にも、セクシャルマイノリティにも、セクシャルマジョリティにも、フェミニストにも、いろいろな人がいて、いろいろ間違っているということがありうるということ。

わたし自身も間違える。
ただ、正しい、正しくないで分けること自体が「ノーマルかどうか」を分けた差別構造と同じになってしまうから、それだけは気を付けたい。差別をしない、排除をしない、してしまったときは改める。
差別をしていた人が改めたとき、それを文章にして公開することを責める風潮があるけど、わたしはそれに反対。
その文章で傷つく人もいるのはわかるけど、変わった人をわたしは歓迎したい。チャラにはしない。

c71の著書

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