今日は、フェミニストが、差別者に向かって「精神疾患持ちの男は」という言い方でののしっていた。
個人的には、悪口を言おうが暴言を吐こうが、好きにしたらいいと思う立場なのだけど、精神疾患を持っているわたしは、泣いてしまった。
精神疾患は、虐待や差別がトリガーになって、発症することも多い。それが、「差別をする人間」として、「精神疾患を持つ人間は差別する」という偏見を下敷きにして、ののしる言葉に使われたので、ショックだった。
女性差別が原因で、精神疾患になった人だっているのだ。
(たとえば、教育熱心な母に抑圧されて、もしくは、境界を侵害され、人生を乗っ取られてしまったという場合は、もともと、その母が自分の人生を生きてこれなかったという原因がある。その母をそのような境遇に追いやったのは誰なのかということだ。親は大人だから、自分で自分の問題を解決すべきだが)
アルコール依存症をはじめとして、あらゆる依存症は、女性差別が原因になる場合も多い。
男性なら、男らしさを背負うことや、戦争から復帰してからのPTSDを紛らわすための飲酒、女性なら、社会と隔絶させられたためのキッチンドランカー。
体を与えなければ愛されないと思い込んだセックス依存症。
痩せないといけないと思ってしまって始める摂食障害。ストレスを紛らわせるための過食。成熟した体になることを避けるためにもなる。
リストカットをはじめとした自傷も若い女性に多いのは、若い女性の背負わされている現実があまりにつらすぎるからだと思っている。
統合失調症や双極性障害、うつ病が発症するときも、虐待が原因だったり、ストレスが原因だったりする。
その症状も、差別への反応ということも少なからずある。
わたしにとって、フェミニズムとあらゆる差別、帝国主義、貧困、学歴主義、国籍や、戸籍制度、セクシャリティによる差別、夫婦別姓、既婚未婚、子を持つか持たないか、からはじまって、それらは同じ問題だと思っている。
たとえば、女性たちがマルチ商法や自然食品から始まるカルトにはまることも、結局差別が原因だと思っている。
天皇制度、在日韓国人差別、沖縄や北海道の差別などが地続きだ。一つのイシューとして認識している。差別は排除である。分断である。
帝国主義は男たちが始めた。そして、女性は、社会の中心から追いやられてきた。
マイノリティは、一つの差別しか受けないわけじゃない。
マイノリティは、複合的なマイノリティの要素を持つ。
(もしくは、あるイシューではマイノリティでも、そのほかのイシューではマジョリティで誰かを迫害してる場合も多い)
健康な、年に住む男性をモデルにした社会は、それ以外の人たちを「ノーマルじゃないもの」として排除する。
そして、わたしたちは、病む。
わたしは、きちがい、という言葉は比較的平気だ。それは、病名じゃないから、少し遠い言葉として感じる。だからといって、使っていいとも思わない。わたしが精神疾患もちは、差別をする人間だ、と言われて、涙が出るのと同じ気持ちをほかの人に味合わせるからだ。
わたしは、「野に放たれた頭のおかしい人」という言葉を身内同士では使う。例えば、妊婦にけりを入れる人間、障害者であるわたしに「子供は親も障害を持って生まれることも、選んで生まれてきた」と言ってくる人間に関して、「頭がおかしい」以外の言葉を知らないからだ。もっと適切な言葉があればもちろん言い換えるけれど。まだ、適切な言い方が見つからない。
精神疾患を持っている、という辞任を持っている人は、自分と向き合っていると思っている。
病気を認識して、症状をコントロールしようとしているからだ。
もちろん、「野に放たれた頭のおかしい人」という言い方も問題がある。
医療にアクセスできない人がいて、その人を踏みにじるからだ。
(精神疾患への差別や偏見を持ってるから医療にいけない人もいるという皮肉な事態もある)
これも、わたしは当事者だったことがあった。
家庭内で、「頭がおかしい」「ボーダーだ」と言われていて、境界性人格障害の症例を読まされたことがあった。
カウンセリングの資格を取ろうとしていた母の練習台に日常的にされていた。
これから、練習させてね、と言ってするんじゃなくて、普段から頭がおかしいから、カウンセリングの方法を利用して会話するという感じだ。
わたしは、高校生の時に、不眠や幻聴が聞こえて、限界だと思った。
それで、精神科に行きたいと言った。そうしたら、「就職差別される」と言われて、行かせてもらえなかった。
(産婦人科も、行かせてもらえなかった。子宮内膜症だったのに)
わたしは、二十歳の誕生日に母から三歳児対象のおもちゃを渡された。泣いて講義したら、「一緒に遊ぼうと思った」と言われた。就職するなとも言われた。わたしは、頭のおかしい、永遠の幼児として扱われていた。
だから、「野に放たれた頭のおかしい人」というのは、つまり、医療につながれない精神疾患の人、という受け取り方もされる。
わたしが言いたいことが、たとえ「妊婦などの弱者に、肉体的、精神的な攻撃をする人」「加害をためらわずする人」「無知からカルトにはまり、それゆえ、他人を傷つける人」を「頭のおかしい人」と言いたくても、やっぱり不適切なのだ。
精神疾患で、かつ、女性差別者もいるだろう。でも、健常者で、かつ、差別者もいっぱいいる。
フェミニストばかりが、いい子でいないといけないのか、トーンポリシングだ、という言い分もよくわかる。
でも、差別されたとき、わたしは、同じ言論空間からいられない。
差別は、排除なのだ。
一緒にフェミニズムについて語る隣の人が、精神疾患だった、ということは往々にある。
わたしたちは、隠すつもりはなくても、わざわざどんな障害を持っているか、どんな病気を持っているか、どんなセクシャリティ化は言わない。だから、知らないうちに、誰かを排除していることがある。
悪い言葉を使うことも、暴言を吐くことも、ののしることも、わたしは止めない。必要な部分がある。
わたしも言いたいときがある。妊婦時代に、けりを入れられそうになった時、「死ねクソじじい」と怒鳴った。
それは、わたしの回復のために必要不可欠な罵り言葉で、ののしってよかったと心底思っている。
ののしらなかったら、今も、ダメージを引きずっていただろう。
(とはいえ、その事件以降、昼間であっても一人で歩いたことが、いまだに一度もない。暴力は自由を剥奪する)
差別は誰かを傷つけるから、不快にするから、いけないのだというのは一面に過ぎない。
隣にいる人間を「いないもの」にしてしまうから駄目なのだ。それは、死を呼ぶ。
わたしも死んでしまいたかった。
わたしは、「それは精神疾患への差別ですよ」とは言えなかった。
わたしの心は折れてしまっていたから。
わたしは、その場から、消える。
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