逃げればよかったんじゃない?自分の選択だったんでしょ、と言われたので

わたしは実母との絆が深かった。

なので、脱出が遅れた。

脱出するのが遅れたので、嘆いていたら、「逃げればよかったんじゃない?自分の選択だったんでしょ」と継母に言われたので、「ああ、そうなんだ、逃げなきゃ」と思って、それを言った人からまた逃げた。

大人になるのは難しいことで、というのも、「親との絆」が強い場合、いつまでたっても「子供の役」を頑張って演じないといけないと思っていた。

そこから逃げて、逃げた先で、またつらいことを言われたので、また逃げた。

渦中にいるときには、わたしは逃げることを思いつかなかった。

「幸せ」なんだと思っていたから。
でも、いつもなんだか苦しくて、病気がちだった。

親の許可をもらって、精神科に行ったのが、二十歳を過ぎてからだ。

許可をもらうことなんていらなかったのに。

親はいつも「精神病の人に偏見はない」と言っていた。でも、今思うと、偏見があったのだ。
「あの病院から出てくる人は変な人が多い」と笑って言っていた。

親としてしてくれたことはたくさんあったと思う。逃げられなかったのは、わたしの責任といえば責任なのだろう。
でも、わたしがなかなか大人になれなかったのは、親が「子供」を欲していたから、わたしが「子供の役」をするのが親への恩の返し方だと信じていた。

一緒にいる時、わたしは親のことを好きだと思っていたし、愛していたと思っていた。
でも、いつもいつも苦しかった。好きだから、合わせたかった。なるべく一緒の時間を過ごしたかった。

わたしは親のことをかわいそうだと思っていた。
親が自分のことを不幸がっていたからだ。

わたしの面倒を見ないといけないとなると、張り切って元気そうだった。
わたしは、混乱していた。

わたしが具合が悪くなるようなことを親はする。そして、そのあとケアする。
理由のわからない不機嫌につき合わされて疲れていた。

だから、わたしについた最初の病名は、「適応障害」「パニック障害」「気分障害」「うつ病」だった。
結果的に病名は増えていくのだけど、医者は「病名にはあまり意味がない」「病名で人は治らない」「親御さんから離れることしかない」と言った。

結局、わたしが親を離れることができたのは、犯罪に遭ったからだ。

犯罪に遭って、身も心もボロボロだったときに「知らない」「勝手にして」と言われたからだ。

だから、親の言うことを聞いて、勝手にした。

勝手にしてから、アレルギー性皮膚炎が改善し、体の倦怠感もパニックも落ち着いていった。

自分が勝手にしてから、「c71は誘拐された」と警察に届けられた。それで、わたしの親はおかしいと分かった。

c71と会うと動悸がするから家に来ないで、と継母に言われたので、行くのをやめた。

大人になれないことをずっと責められていたけど、「子供でいること」を求められていたのだと分かった。
それは助言という形のお金のかからない支配だった。

死にかけていた時、継母のいる父の家に行ったのだけど、出ていって、それがあなたのためだから、と言われたので、出ていった。
金銭的な援助をしてもらって、ありがたいと今でも思っているけれど、あのころの自分のことを考えると気の毒だと思う。

今では、誰かが亡くなっても葬式にも呼ばれない。

ここに書いてはいけないと言われたけど、書いてみた。

誰も、継母のことも、実母のことも、実父のことも、特定できないから安心してほしい。

c71の著書

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