ツイッターで、アスペルガーの人には感情がないから、人の気持ちを理解させることは酷でしょう、という内容のツイートを読んだ。
とんでもない誤解で、わたしは悲しくなった。
わたしは、アスペルガーの領域にはないから、厳密には当事者ではない。
でも、ASDではあるから、一応言っておきたい。もちろん、わたしのブログを読む人にはそんな誤解をしている人はそもそもいないだろうけれど。
わたしには、感情がある。怒りも、悲しみも、喜びも、楽しさもある。
心はある。動く。相手の気持ちもわかるつもりだ。ただ、それが正解かどうか、確かめるすべはないと思っている。だから、間違っているんじゃないかといつも不安だ。
相手の気持ちを読んでも、相手の気持ちの欲している通りの行動をとる必然性がないから、相手の要求には従わないことが多い。思い通りにならない。
相手が怒っているかなどの、ムードは理解できる。力関係もあるのだなと想像はできる。
でも、相手の思い通りの行動をとることはない。
それゆえ、結果的に、相手の気持ちがわからないと思われているのだろうと思う。
実際、人間が複数いたときの、力関係を読み切ることもできない。そして、言外の意味をとらえることもかなり難しい。
端的に言われないとわからない。言葉の裏を読み取れない。場面によって変わる意味が多い時には、かなり疲労する。
だから、わたしは、相手が言ったことを、こういう意味ですかと確認することが多い。そうやって、工夫をしている。
もう一つ、わたしは、自分が困っていることを把握したり自覚したりすることが苦手だ。
寒いな、と思っても、我慢するという感覚もなく、もう一枚服を着ようという発想が出ない。
生きることが難しいので、それが当たり前すぎるので、工夫をするという発想が出ない。
だから、困っていることを、解決するために、調べたり相談するという過程が存在しにくい。
よっぽど困ったら、困ったといえるけれど、たいていは、困っているという自覚がない。相当事態が悪化してから、ようやく、どうにかしないといけないのかもしれない、と思う程度だ。
だから、わたしのこうした行動を見て、困っているという感覚がない、寒さも感じないのかもしれない、と思う人がいるのだろうと思う。寒さは、たとえなのだけれど、反応しないから、感じない、感じないということは、心がないのだ、という風に解釈されがちなのだろうかと思う。
今は、早期発見、早期療育が主流だ。
わたしは、もちろん、大人になってから発見されたものなので、それがどれだけ有効なのかわからない。
ただ、最近、療育も、ほかの人たちとなじむことを目的とされているのならば、それがどれだけ、当事者を幸せにできるのか、その視点で考えると、早期発見が必要なのかどうか、疑問になってきた。
わたしは、発見が遅れたから、二次障害が起きた。いろいろつらい目にもあった。
避けられることのできた、悲しい出来事も多かった。だから、早期発見、早期療育を受けられる人がうらやましかった。
でも、今は、早期発見、早期療育ではなくても、いいんじゃないかと思っている。
生存バイアスかもしれないけれど、それもひっくるめて、わたしだし。
早期療育に追い詰められている人もいるようだから、それくらいなら、時間をおいてから、どうにか工夫を考えることでも遅くないと思う。
どんな人生でも、先回りされすぎると、生きている感覚を失いがちだ。
以前、発達障害の子供を持つ人が、それを認めるのがいやだ、と言っていた。
そのときは、発達障害を認めるのがなぜ嫌なのか、それは別に不幸なことじゃないのにと思った。
でも、今は、少し変わった。別に不幸なことじゃないと思う気持ちは変わらないけれど、認めにくい人がいるなら、その人のペースに合わせて、その人が認められるようになるまで待って、それからみんなが手伝えばいいんじゃないかと。早期療育が大切だからと、焦らせたり、認めないことが悪だと思うから、追い詰められる親御さんがいるのかもしれないと思うようになった。
発達障害でも、幸せになれる。
もちろん、わたしが思い描いた、未来に今いない。わたしの夢は叶わなかった。
でも、妥協した未来は、結構幸せだ。
できる範囲のことをしている、そういうことを、自分で受け入れられるようになるまで、苦しかった。今だって、苦しい。
起きなければよかったたくさんのことさえなければ、夢が叶ったかもしれないと何度も思う。ずっと思う。
でも、その苦しさと、今幸せであることは、両立する。
生徒を教えていると、能力よりも、人としての成熟が、その人の進路に深くかかわることを何度も教えられる。
能力があるはずなのに、伸びない生徒もいる。能力が人より劣っているはずなのに、できることが増えていく生徒もいる。
外から見たら、もともとの能力は見えない。できることで評価される。能力って何だろうと思わされる。
この子はできないと見放された子を何度も教えた。でも、学ぶことの楽しさを伝えると、自分で、人生を切り開ける子供のほうが多い。わたしは、手伝うことしかできないけれど、自分の意思で、人生を切り開いていく子供には頼もしさを感じる。
いろいろな偏見がある。偏見は、人の範囲を規定してしまう。チャレンジするための気力を奪う。
発達障害だから、能力に凸凹があるから、女の子だから、男の子だから、あれはできない、これはできない、というのではなくて、それぞれがしたいことを援助することが、幸せを導くはずだ。
だから、アスペルガーには感情がないなんて、言わないでほしい。
アスペルガーにも、発達障害にも、幸せはある。
どんな人にも幸せはある。
アスペルガーには、感情がないから、人の気持ちはわからない、というのは、偏見であり、誤解だ。
そういった誤解が、いろいろな人を、当事者だけでなく、それに関わる人を苦しめる。
その偏見を先に摂取してしまった人は、発達障害を認めることが難しくなるだろう。
人の助けを借りてはいけない、ということも、難しくなるだろう。
人が自分の能力を花開かせるためには、偏見や、抑圧から、差別からも、解き放たれている必要がある。
小さな、一つの誤解を減らすことで、人の可能性が増えていく。
>相手の気持ちもわかるつもりだ。ただ、それが正解かどうか、確かめるすべはないと思っている。だから、間違っているんじゃないかといつも不安だ。
おそらく、この気持ちを一般的に書き表すとしたら、
「私は自閉症だから、発達障害だから、相手の気持ちが理解できないんです」
となるのではないでしょうか。
「いつも不安だ」とc71さんが感じているということは、そこで、結果的に他人とトラブルになることが多いということでしょうから、その原因は発達障害にあると考えて、嘆くのが普通だと思います。
そして、そこから引き起こされる感情は、「かわいそうだね」だと思います。
でも、c71さんはかわいそうだと思われることを避ける人ですから、こういう文章が生まれたのだと思います。
私はc71さんの文章の方が、正しいように思いました。
他者理解の正しい解釈なのではないかと思いました。
ただ、私は、間違っていることをいつも不安に思わないだけで、そのへんを適当に、上手く誤魔化しているだけであって、それが自然にできてしまうのが定型発達なのかもしれません。
じゃあ、非定型は何かというと、周囲の人の真似ができないということになるのかもしれません。
例えば、自分の感情を捨て去ることによって、周囲の人の感情が自分の中に入ってきやすくなるように思います。
真似るって、自分を捨てることが条件になるのでしょうね。
うまくカムフラージュできるということ。
逆に、定型発達の人の多くは、自分が無いことに悩みを持っています。
だから、c71さんのように、自分自身を知っている人、自分の感情そのものに目を向けられることに、憧れたりすると思います
ただ、定型発達の世界では、他人より秀でていたり、違うことをする人を妬むのがルールですから、c71さんのような才能は隠されなくてはなりません。
私は、c71さんは相手の気持ちを読めていると思います。
ただ、残念なことに、その相手が本人の正しい気持ちを理解できていないケースもあるのではないでしょうか。むしろ定型発達の人ってそうです。
たいていは、「場の感情」を真似ているのです。
「場の感情」って、つまらないものですけど、そこそこ尊重しておかないと、余計めんどくさくなりますからね。
こんにちは。
難しい内容だったので、どうかこうか、悩みました。
>>例えば、自分の感情を捨て去ることによって、周囲の人の感情が自分の中に入ってきやすくなるように思います。
真似るって、自分を捨てることが条件になるのでしょうね。
こうだとしたら、わたしはつらいから、できたとしてもしないなあ、と思います。
でも、そうしたほうが便利なのでしょうね。
わたしは、人の心を推測できても、正しいかどうか、答え合わせできない以上、わからないものだ、と思って生活しています。
子供のころは強制的に集団の中にいたので、もちろん、軋轢は大きかったです。それが、障害だということですね。
翻って、
>>逆に、定型発達の人の多くは、自分が無いことに悩みを持っています。
これも、つらい悩みでしょうね。
わたしは、人に流されることも多かったので(自閉スペクトラム症は人の言いなりになりやすい)自分がないのではないかと悩んだ時間も長かったです。
でも、自分で考えて、自分の気持ちを、観測したいなと思ってずっと続けています。
定型発達の世界では、確かに、「ねたむ」という文化があるようですね。
それも、定型発達の人の社会的な「障害」という風に、わたしは考えています。
定型発達の人も困っているのだという認識です。
本人が、自分の正しい気持ちを正確に理解できていない、というのは面白い視点でした。
だから、「場の感情」というものを大切にして、それを壊す人(わたしのような人)を憎むのですね。よりどころがなくなるから。
わたしは、自分が大事だということを、はっきりしないと、騙されたり、害されたりしやすいので、筋が通っていないと、たやすく場を壊すか、離脱します。
確かに、めんどくさいことも多いので、その通りです。でも、今のやり方でやっていきたいと思っています。
ご意見、面白かったです。
ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
C71さんが、定型発達の真似をするのは、ちょっともったいないですね。
>だから、「場の感情」というものを大切にして、それを壊す人(わたしのような人)を憎むのですね。
憎まれているかどうかはわかりませんが、「場の感情」によって壊されてきたのが、c71さん個人の感情であるとすると、そこには正当防衛という感覚が生まれてくるのかもしれません。それが常態化しなければそれでいいと私は思います。
返信が、すごーく、一か月も遅くなってすみません。
もったいないといってくださって、ありがとうございます。
なかなか、自信を失う毎日です。
人からどう思われているか、考え始めるときりがないですね。
確かに、憎まれているかどうか、わからないですね。相手が困惑しているかもしれない、というくらいにしておいてもいいかもしれません。
そうそう、正当防衛、という感じは、とてもぴんときます。
昔、居心地の悪いところにいたら、場の空気を壊してもいいから、立ち去りなさい、ということを言ってもらったことがあって、できるだけ、そうしたいなと思っています。
初めまして。アスペルガー障害とADHDと双極性障害を持つ当事者です。
私もその場に合っているかどうか分からなくても喜怒哀楽の感情や、他者への共感、同情、尊敬、感動など様々な感情を持ち合わせているつもりですので「アスペルガーだから感情がない」「人の気持ちが分からない、わかるようにならない」等言われたり書いてあるのを見るととても心外で複雑な気分になります。
定型発達者が、自分は他者の気持ちをわかるというのも100%正しいとは言えないし、それならば初めから「自分の解釈は間違っているかもしれないし、正しいかもしれないが、今この場では判断基準がない」と考え悩む私やあなたの方がむしろ健全であり、他者の気持ちに寄り添っているようにも思えるのです。
あらゆる可能性を考え、柔軟に考え方や対応を変えることが朝可能だからです。
私は30代後半ですが、小学校時代から周囲との違和を感じ、自分がおかしいと考え、なるべく定型発達者の真似をするよう心がけて来ました。今では幸いにも理解してくれる伴侶や義理の家族を得ることができたので(実の親きょうだいは未だに理解がありません)、家では発達障害らしさをあまり気にせず自由にできるので、さほどストレスを溜めずに済んでいます。親しくない相手に対しては、定型発達のふりを続けていくつもりです。
近年は早期発見、早期療育が叫ばれていますが、こどものうちにある程度はいい意味で一般社会の洗礼を受けることも必要ではないかな、と感じます。
同じ境遇の子供たちとばかり接していて、社会人になってから野に放たれるのは却って酷に思えますよね。
もちろん傷ついたり差別されたり辛い思いもすることはあると思いますが、それをリカバリーしてあげたり、自分自身を奮い立たせる方法等、それぞれに合ったやり方を見つけてあげるのも周りの大人の責任だと考えます。
まだまだ世間に発達障害という概念が広まり始めたばかりなので、正しい知識がなくやみくもに怖がっている親が多すぎると思いますが、あまりネガティヴキャンペーンばかりしないで、まあまあうまくやっている人も少なくないよ、ということを微力ながら拡散していきたいです。
長文、乱筆ながら失礼いたしました。
こんにちは、わたしも早期療育には疑問があります。手助けは必要ですが、どっぷりつからせてそこでしか役に立たないスキルを身に着けるような療育も見聞きします。
わたしも、楽しく生きられるということを発信したいです。今、楽しく生きていらっしゃるとのことで、たいへんうれしく思います。
お互い、目標が達成できますように。