社会問題を知ってほしいといわれるだけで反発する人たち

社会問題を提起したり、知ってほしいと運動しただけで、反発する人がいる。
溝を深めるとか、どうしてほしいのか言わないと意味がないとか、共感してほしいだけなのかとか。
個人的には共感は大事なことだと思うけれど、最後のことを言う人は、共感するだけでは物事は解決しないから意味がない、論理的に提示せよ、という割には、普段共感ベースで行動しているのだろうなと思う。
共感しないで行動すれば、相手の要求を飲むか飲まないかの判断になるだけだからだ。知ってほしいというのならば、じゃあ、知っておくか、それとも今は知りたくないから知らないでおくか、くらいの反応だけでいいはずで、反発まではする理由がない。

わたしは、そのまま鵜呑みにする。ああ、知ってほしいのだなと思ったら、知るようにしている。
その後、どう行動するかは、わたしの判断にゆだねられていると思うからだ。
要求を提示していないというけれど、知ってほしいという提示は、明確なのに、どうして、そんなことを言うのかよくわからない。責められていると思い込んで、防御しているだけのように見える。

生理痛について知ってほしい、というと、そういう風に男女の溝を深めてどうするのか、知ったからといって何もできない、知りようがないことを理解してほしいといわれても困る、と言いう反応をよく目にする。
別に、相手が知ってほしい、と言っているのだから、そういっているんだな、と思う程度に受け止めればいいのにと思う。
だって、要求はそれだけだから。
それ以上のことをするかどうかは、自分にゆだねられている、尊重されていると捉えられないのはなぜなのか。

相手に指示されることを待ち続けていたらそうなってしまうのだろうか。

個人的には、困っている人がいたら、助ける余力があった場合、助けるのは当たり前だと思う。それが社会の役割だからだ。

今週は発達障害について知ってもらう週間だ。
でも、それにも反発する人がいる。知りたくないなら知らなくてもいい。でも、こちらは知ってほしい。
知ってもらうことで、すそ野が増える。その中に走るだけじゃなくて、どう対応すればいいのか、知りたいと思ってくれる人もいるだろう。
でも、そういう障害があることを知らなかったら、そういうことを知りたいと思い立ってくれる人も見込めないわけだから、意味がないとは思わない。

知ってほしい、といった時には、知ってほしいと思っているだけだ。
その後、支援をしてくれるのならば助かる。知ったら、何か考えてくれることも期待はしている。でも、知ってほしい、それがまず最初だ。問題がそこにあると誰も知らなかったら、どうすることもできないからだ。

知ってほしいといわれたときに、反発する人は、共感を主にして行動することが多いのだろう。だから、無理やり何かを要求されたと感じてしまうのだろう。
知ってほしいということも、もちろん要求には違いないが、何かしてほしいというよりも以前にただ知ってほしいという気持ちがある。
言外の言葉を読みすぎるのは、いわゆる「普通」の人に見られがちな行動だけれど、一度、言葉だけのことをそのまま受け取ってもらえないかと思う。

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