ネット上の言葉を読むと、「ベビーカーは迷惑」「子供の泣き声を聞かせるな」というメッセージが飛び交う。
ベビーカーの部分には、病人、身体障碍者、精神障碍者、病気とは言えなくても、体調が悪い人、などを入れてもらってもいい。
成年健常者たちは、弱い人たちを恐れている。なんなら、弱い人たちが、自分たちの権利を邪魔し、はく奪するような強迫観念を抱いているように見える。
弱者を恐れているから、だから、攻撃的になるのだという風にも見えるし、弱者はやり返してくる可能性が低いから、うっぷん晴らしにいくらでも攻撃できるのだと思っているようにも見える。
わたしは、今は比較的健康だが、以前は、電車の中で貧血や吐き気、めまい、などに悩まされやすかった。
首都圏の電車内でも、席を譲ってもらうことは多く、譲ってくれる人は、たいてい、若い女性や若い男性だった。
いわゆる、中年の人には譲ってもらったことがない。一度、高齢者にも譲ってもらったことがある。七十代だっただろうか。
中年の人、特にスーツを着た男性は、周りを一切見ないので、周りに誰がいようと気が付かない様子だった。
十年ほど前、電車の中で、どのくらいの人たちが、性的な刺激をのあるものを電車内で読んでいるか数えたことがあった。
五日間ほど数えていたけれど、たいていの場合、男性の六割から八割が、性的な刺激のあるものを電車内で広げていた。
スーツを着た男性に突き飛ばされたり、ぶつかられたりしたことはたくさんある。絶対に彼らは謝らない。こちらをにらみつける。ぶつかったのは、そちらなのに、そこにいた、わたしが悪いかのようににらむ。
電車の中のトラブルは多く、男性に怒鳴りつけられたり、大声を出されたり、車両を変えても追い掛け回されたりすることはよくあった。
痴漢もいた。
首都圏には、独特の電車マナーがあって、それに合わない人間は、いくらでも、危害を与えても、よい、と彼らは思っているようだった。
成年男性というグループがある。もちろん、彼らがひとりひとりみんな同じ人間だとは思っていない。
思っていないが、彼らに対して、身構える気分がある。
居酒屋に入れば、痴漢を日常的にしている、と自慢げに語る男性はいる。
気に入らない女にこんな風にしてやった、と武勇伝を語る男性がいる。
男性全体がそうではない、といくら言われても、やはり恐怖を抱く。
ベビーカー論争という恥ずかしい論争が、おおっぴらに行われている。
ベビーカーは必需品だ。それに論議は必要ない。ベビーカーは存在する。赤ん坊や子供も存在する。気に入らなくてもだ。
気に入ろうが気に入らなかろうが、彼らは存在する。
身ごもってからうんざりするのだが、身ごもっただけで、「母親扱い」されることが増えた。
「母親なら、子供のために我慢しないといけない」と言われる。
「自分のことをあきらめられないのなら、子供は生まないほうがいい」とまで。すでに身ごもっているのだから、もう、おろすしかないのだが。そう、わたしは、さらさら、子供のために自分のことをあきらめるつもりはない。
わたしの中に、子供がいようがいまいが、わたしの人格にも、やりたいことにも、劇的な変化はなく、以前のわたしのままだ。
エコーに映る子供の姿をかわいいと思える運の良さはあったものの、それ以外はいたって変わらない。
つわり、うざい、早く辞めたい、だるい、というようなことを連呼しながら、ダラダラ暮らしている。
人は、子供を産んだら、豹変して、すべてが子供中心になって、子供のために生きて、自分のことはあきらめるようになるのだと思い込んでいるようだ。
しかし、もちろん、わたしは身ごもっているだけの、今まで通りの人間だ。そんなに簡単には変わりはしない。
子供を産んでも愛せないかもしれない。愛せないとしても、死なないように育てようとは思っている。でも、したいことをこれからあきらめるつもりはない。あきらめるつもりがないから、子育てを手伝ってくれそうな家族を増やした。
パートナー以外にも、セクマイのAちゃんを自分の家の近くに呼び寄せた。彼女は、自分は子供を産むつもりは一切ないが、育てることには参加したいという。だから、Aちゃんとわたしたちは同盟関係のような家族だ。子供を身ごもっている間は、わたしにしかできないことばかりだが、生まれたら、人と交代できる。交代できる範囲で、わたしはしたいことをしたい。考え通りにうまくいくとは限らないが。
ベビーカーが電車に乗ると、邪魔だという人がいる。
邪魔なのは、自分だ、とは思わないらしい。電車は通勤のための道具ではない。誰にでも開かれた移動手段だから、誰がどんな形で移動しても、何か言われる筋合いはない。
ベビーカーを使って移動する人に文句を言うなら、自分がベビーカーを見たら、違う電車に乗り換えればいいのだけれど、ベビーカーが邪魔だという人は、自分ではなく、子持ちの女性に、「電車に乗る時間を考えろ。ベビーカーを使って、電車に乗るな」というようなことを主張する。成年健常者だって、場所はとる。邪魔だ。
病人だったり、けがをしているとき、元気そうな人が全部邪魔に見えた。でも、邪魔だから全員降りろとは、主張しなかった。それは変だからだ。
でも、成年健常者の方々は、そういうことを平気でおっしゃる。
けがをしていてよろよろしていたり、病気で動けないと、弱い人間だとみなされて、思う存分攻撃される。首都圏の成年健常者たちは、弱さを見たら、助けようと思うよりも、攻撃してもいい相手だ、と認識する割合がとても多い。
女性ならば、男性に、突き飛ばされたりぶつかられたり、電車の中でお尻や胸に何か当たることが今までに一度はあるのではないか。
男性に聞いたところ、胸や尻に、偶然カバンがしつこく当たることは一度もないといっていた。あれは、混雑によるやむを得ないものではないのだと知ったとき驚いた。
ベビーカーに対する嫌悪は、年々度を越している。新聞でも、ベビーカーの是非を問題とするアンケートが取られる。
ベビーカーの是非?そこに子供が乗っていたら、人権問題だし、乗っていなかったら、電車にもちこむ所持品をチェックされることにつながる。やっぱり人権問題だ。
新年が明けて、ある寺がベビーカー自粛を呼び掛けていた。
いろいろ意見を読んだ。寺からの言い分もあった。
今までベビーカーユーザーを優遇していたけれど、もめごとがあったので、やめ、自粛を呼びかけたのだと。
ネットでは、新年の参拝をしなくても死にはしないのだから、数年、あきらめればいい、という意見を見た。
どうして、子持ちになると、行動範囲を狭めなくてはいけないのか。
親が自分の判断で「面倒くさいから、今年は、いいや」と思うことと、他人が「行かなくても死なないんだから自粛しろ」というのでは大きく違う。
誰も、参拝しなくても死なない。死なないが行きたい。参拝しなくても死なない、という条件は同じでも、子連れにはそういうことを言える。
親になった人間は、人間に見なされなくなる。子供も、人間扱いされない。
そういうことじゃないのか。
妊娠してからだけでも、いろいろなことを言われた。
わたしの子供を身ごもった理由は面白そうだからだ。
どんな理由でも、わたしの理由だから、誰に何を言われる筋合いもない。
金も手も出さない人の言うことに価値は一つもないからだ。
身ごもってから、親に対する意見が目に入りやすくなった。
子供を産まないと将来寂しい、子供を産まないと介護をしてもらえない、そんな風に言っている人たちがいた。
子供の人生を、自分の利己的な理由のために使うということは、子供を人間扱いしていないということだ。
わたしは子供に、幸せも祈りたくない。
子供自身が、幸せとはどういうことかわかって、自分がどういう状態か知って、そうしたら、ようやく、子供が幸せになれる手伝いができると思っている。子供という他人の幸せを、他人であるわたしが規定することは、害だと思っている。もちろん、幸せでいてほしいと思わないわけじゃないが、わたしの思う、幸せの形を押し付けることは不幸の始まりだと思っている。
ベビーカーを自粛するべき、という人たちは、自分と他人との区別がついていない。
自分にとっての邪魔は排除したい、それだけを考えていて、相手にも都合があることも、相手も人間だということがすっぽり抜けている。
上記の寺は、配慮した状態から、自粛に至る経緯があるにしても、配慮から自粛は、両極端に飛びすぎだ。
混雑していたら、ベビーカー以外にも、きっともめごとはあっただろう。
ベビーカーにだけ、自粛を呼びかける背景には、「ベビーカーに自粛を求めても、それを是とする人が多い」という無意識の判断があったのではないか。
反発されることを、寺側は予測していなかったという。
反発されないと思っていたのだ。ベビーカーだから。
乳幼児だろうが、子供だろうが、人間だ。人間だからどこに行く自由もある。親側が、「混雑して危ないから行くのはよそう」と思うことと、混雑している場の人間が「混雑しているから来るな。子供がかわいそうだろ、それもわからないなんて、親失格だ」というのとは全く次元が違うことだ。それなのに、それを混同している人が多い。
どうして、ベビーカーが、こんなにも攻撃されるのか。
それは、ベビーカーに付属するイメージを恐れているからなのか、弱い立場から攻撃のはけ口にしてもいいと思っているからかなのか。
子供を持つことに対する、憎しみのようなものを感じることがある。
パートナーがいること、幸せそうなこと、性行為をした結果であること、いろいろな気持ちを見る。ネット上で。
現実でも、親ならこうするべき、親なら子供を泣かせないようにするべき、そういった言葉を見たり聞いたりする。
そうした憎しみの前では「あなたも以前子供だった」と言っても、心に伝わらないようだ。
自分が健常者だと思いたがっている大人は、自分が弱い人間であることを認めることが怖くて、おびえているように見える。
自分が強いことをなんとか確保したくて、弱い人間を攻撃することで、上に建てるような錯覚を摂取して、何とか生きようとしているように見えることがある。
健常者だろうが、成年だろうが、どこかに誰もが弱さを抱えている。
しかし、特に成年男性は、自分の弱さを受け入れることが特に苦手なようだ。
だから、弱さを見ると、自分の弱さを連想することが怖くて、それを目の前から消したいあまり、いらいらして、攻撃に至るんじゃないかと感じる。
弱さを受けれることができない人間に、「あなたも子供だった」「あなたもいずれ、弱くなる」「病気にもなる、老人にもなる」ということを言っても響かないのは、そもそも、自分の弱さを真正面から見つめられないからではないか。
本当は、誰もが弱い。
けれど、自分の中の弱さを認められない。
だから、弱い人間の象徴である、ベビーカーに乗る乳幼児や、それを連れている人に対して、いらだち、攻撃するのではないか。
それを恐れる人がいるのではないか。
弱い人間は存在を許されない、という規範が、自分自身をさいなみながら、他人にまで、その価値観がいたるのではないか。だから、ベビーカーに対して、あんなにも、理屈を超えた反応を示すのではないか。