慰安婦像でもめているようだ。
慰安婦じゃなくて、性奴隷、性虐待、だと思うけど。
慰安婦はねつ造だと言い張る人がいる。
彼らは、慰安婦などいなかったということにすると、何か、助かる部分があるのだろう。
わたしの推測では、その根本に「瑕疵のあるものは愛せない」という気持ちがあるように思う。
自分の所属する国と、自分が一体になってしまっているから、自分の国が、過去に、犯罪をしたことが認められないのだ。
日本は、過去、朝鮮から男女問わず人を拉致して、働かせて、用済みになったら殺した、という歴史がある。
松代地下壕づくりに、朝鮮の人たちが連れられてきて、死ぬまで働かされて、戦争が終わったら、国に返された。ほとんど無一文で。
女性は、慰安婦にされた。
日本は「謝った」と主張しているけれども、謝る、というのは、自分のしたことを認める、ということなのに、なぜか、慰安婦像の撤去を求めている。悪いと思ったのなら、日本からの虐待や加害の歴史を記憶するための像もちろん受け入れるのが筋だ。
謝ったのだから、自分を責めることを二度とするな、というのはいじめっこの主張だ。
また、慰安婦像の撤去は、どうも、もとからの約束に含まれていなかったようだし。
日本にも、広島や長崎の原爆博物館がある。それは、自分たちに起きたことを語り継ぐためだ。それは必要で、韓国には慰安婦像が必要じゃないとは、筋が通っていない。
慰安婦像があることで、いらだつ人たちは、どうして、いらだつのだろうか。
不都合だということか。
自分たちがした、犯罪のシンボルが目に入ると、不愉快になる、という時点で、誤っていることにならない。
強姦されて、相手が謝ったからと言って、相手の主張を全部飲めるだろうか?飲めないだろう。
相手が謝ったから何もかも許すのはおかしいしできもしない。
なのに、慰安婦像のことを言う人たちは、謝ったのだから、という。謝ったのに慰安婦像を撤去しないのは、おかしい、という。
どうしておかしいんだ。
瑕疵のないものにあこがれている人が多すぎる。
健康で、罪を犯さず、迷惑をかけない。そういう像を、幻想を保つために、現実のほうをゆがめる。なかったことにして、理想の自分や、理想の国を維持していたいんだ。
そのために、他人にした差別や加害を謝らない、ということが発生する。
実際にはしていても、認めないことで、なかったことにして、自分の世界を保っている。
複雑なことを嫌う人がいる。
世の中も現実も過去も複雑だ。
それを主張したり表現しただけで、「押しつけがましい、不愉快」という人がいる。
そのような人は、複雑さに弱いために、周りが決めたことや、狭い箱に入って、その中で適応しようとする。そうして、狭い世界しか知らないままだ。
だから、不自由であっても、箱の中から逃れようとしない。箱のことをそもそも認識していないからだ。思い込みが自分を縛っているのに。
慰安婦は、ねつ造と主張して、見ないことにして、どうなるんだろう。自分の弱さを認めないままいられるかもしれないが、それ以上のことは起きないだろう。
謝ったからといって、許されるとは限らない。
謝ったのだから、すべてをちゃらにしろ、被害を受けたことを忘れろ、というのは横暴で幼稚で、情けない。