わたしは「人間味がない」とよく言われました。
人間味がないといわれると、自分が人間として認められないようで、やはり苦しくなりました。
でも、やっぱり、わたしは人間なのです。
人間味がないだけなのです。それは、心の中のことが、表面に出ないからです。
よく話すし、特に子供のころは、人と接するにあたって、かなり気を使って、ユーザーフレンドリーにしていたつもりでした。
はしゃいだり、子供らしくいたりするように努力していました。
でも、根本的には理詰めの人間なので、よく「人間味がない」と言われました。
感情はあります。悲しいとか楽しいとか嬉しいとか、疲れたとか、ちゃんと感じます。
その表現手段が人と違うようなのです。
ネットでは、わたしの能力の凸凹のうち、凸部分を発揮できるので、有利です。でも、体を伴う現実世界ではそうはいきません。場にそぐわないことをよく言うので「毒舌」と評されてきました。
しかし、今になって思うのですが、そもそも、人間味って必要なんでしょうか?
必要なことを淡々とこなすことで、それだけで十分なのではないかと思います。
目には見えなくても、心の中にはいろいろなことが起きています。
それを把握したり、ほかの人と同じように表現するのが下手なだけです。
わたしには表現力があります。それは、文章を書くとき最も発揮されます。
人と話すときには一方的になったり、説明口調になったりします。それが重宝されることもあります。そして、敬遠されることもあります。
子供のころには人間味をひどく要求されてつらかった記憶があります。
今は、人間味を要求されないので、楽です。
人間味ってほんとに必要なのでしょうか?
それを見て、安心したいだけなのではないでしょうか?
人間味を見て安心する人のために、ただでさえ疲れやすい人間が、よりリソースを割いて、適応しづらくなることは間違っているように思います。
わたしたちは機械のように見えても、機械ではありません。
機械ですら壊れますから、わたしたちも壊れます。
わたしたちというのは、発達障害の人たちです。
人間は一度壊れると元には戻りません。ゆっくりと回復はしていきますが、壊れたままです。
壊れないようにするために、必要ではないものを、求めないようにすることで、世の中にある良いものを増やすことができるはずです。
安心感のために、犠牲にするものよりも、得るものが大きいはずです。
発達障害の人たちも人間です。表情が出にくい、感情を出しにくい自閉症の人たちも、感情がある人間です。誤解されやすいことですが、感情がないわけではありません。ただ、外の感情を読み取ることと、感情を外に出すことが苦手なだけなのです。
人間味というはかれないもののために、犠牲にするものが大きいのならば、それを省くことも、また、よいアイディアなのではないかと思います。
怪物のように言われました。怖がられてきました。しかし、わたしは人間です。
スポンサーリンク