迷いながらのフェミニズム

以前、性暴力サバイバーだということに付け込まれて、非常に傷ついたことがあった。
傷ついたわたしは、利用してきた相手を口汚くののしった。
そうしたら、「そんな言い方はよくない。後で自分が後悔する」と言って来たり、「ホームページのリンクの色を直したほうがいいですよ」と水を差すことによって、冷静になるか試してきたりする相手がいた。

それは、パターナリズムだと思った。父権的だ。
「正しくあれ」という声は、わたしが傷つきいたぶられたときの叫びを無効化する。わたしの語りを無化する。

反差別を標榜する人が、「あの人は差別者だから、リツイートしてはいけない。かかわってはいけない」というようなことを言ってくるときがあった。関わったら、離れる、あっち側の仲間とみなす、というような。

でも、自分が話したい相手と話したい。

コントロールしてくる相手を、信頼するのは無理だ。
反差別のご高説を語る人は、人の瑕疵を許せないようだ。
自分の論理が完璧だと思っているのか、それはわからないけれど、フェミニストを名乗るわたしを仲間かどうか、見定めている感触があった。

でも、わたしに言わせれば、自分が正しいと決め込んで、人が試行錯誤しているのを、高みの見物でジャッジする人は、卑怯であり、権力志向である。
権力志向ならば、否定しているはずの家父長制となんら変わりのない構造ではないだろうか。

差別に加担していると、批判されるのならばいいが、ただ、本当に傷ついて命の危険を感じるような精神状態の時に「より良い振る舞い方をするべきだ」と言ってくるのだったら、わたしに加害してきた相手にアプローチするべきじゃないのか。
ツイッター上で、普段、誰かが一人、この人は間違っていると糾弾し始めると、アリがたかるように、一斉に、糾弾し始めることに、嫌悪感がある。自分が、おかしいと思っているだけじゃなくて、ほかの人も言っていると安心してから言及し始める人が多すぎる。わたしはそう感じる。

良い子でいられなくて、振り絞るように相手を攻撃することを、あなたのためによくないといってくるのは、わたしの口をふさいでいるだけ。
わたしの苦しみは、体の中に押しとどめられて、わたしをいつまでも攻撃する。そんなことよりも、わたしは、ちゃんと相手を攻撃したい。
攻撃されて傷ついたら、きちんと殴り返すべきだと、わたしは思っているから。
コントロールする欲望を、抑えられない、いうだけの反差別者は、理論上は完璧なのかもしれないが、血が通っていない。
フェミニズムは、主義であり、運動であり、活動である。学問的な側面は、そう、一部に過ぎないのだ。

フェミニズムと権力は相いれない。運動や活動は、指導者を欲しやすいが、指導者を欲した時点で、フェミニストの戦いは、地に落ちる。

正しいことが分からなくても、自分の苦しみを探って、不自由なことをなくすために試行錯誤することも、また、フェミニストとしての戦いだと思う。

わたしは、自分の戦いを、正しいか正しくないか、他人にジャッジされたくない。
わたしが感じたこと、怒り、それが攻撃になって表現されることを、誰に非難されても、やめるつもりはない。
差別されたとき、不当な扱いを受けたとき、やり返すことは、自分を守るために必要なことだ。
攻撃が不毛だと思う人はそうすればいい。でも、わたしは生きる力を守るために、どうしても必要不可欠なことだと思っている。
攻撃され、みじめに泣いているよりも、攻撃し返しているほうが、生きる活力が湧く。泣いているよりも、怒っていたい。
怒っていたら、非難される。我慢しろということだ。我慢したくない。泣いていれば、慰められる。でも、そんなことを待っていたくない。

わたしは、この人生で、まったく我慢したくない。そう決めている。我慢することが美徳だ、という考えは、それは抑圧だ。よくある、女性とは、攻撃的であってはいけない、我慢が美徳だ、という古めかしい、呪詛だ。

そんな伝統を唾棄してから、長いことがたつのに、フェミニストを名乗る人や、反差別だという人から、「そんなことは言ってはいけない」「やりすぎだ」というような、ことを言われるという現実。

どんなご高説を唱え、その理論に隙がなくとも、実践していなければ、意味がない。フェミニズムも反差別も実践だから。

正しいだけのことなら、いくらでも言える。楽だ。
でも、そうやって、人を締め付けるばかりでは、立派な言葉もなんの役にも立たない。差別を指摘したら、差別だと言い返し、もっとより良い方法がある、受けれられるように努力すべきだ、という人たちと、「口汚い言葉でののしると後悔するよ」と言ってくる人との距離は、主張の距離と反して、とても近い。

フェミニズムには反対だ、理解できない、という人でも、フェミニズムの恩恵は受けている場合が多いだろう。
もし、ウーマンリブがなければ、憲法の男女平等も、参政権も、なかったのだから。
フェミニストじゃない、といった時に得られるのは、男性からの庇護だ。

フェミニストであっても、「よい言葉をつかえ」という人の言葉に沿えば、きっと庇護を得られるのだろう。
でも、庇護を得たいがために生きているわけじゃない。だから、言うことなんて聞かない。
わたしの中の混沌、心を切り裂いていく渦の痛みを、知ろうともしない人に、付き合う義理はない。

試行錯誤、間違えること、現実とのすり合わせの中に闘争がある。
立場が違う人、たとえば、わたしが右翼の方と話すこと、そういうことで、世界を広げること。
左翼によっては、反差別だったら、右翼と付き合ってはいけない、というような人もいる。
でも、話をして、意見を交換することくらい、いいじゃないか。
そして、左翼が、わたしに何をしてくれただろう?
フェミニズムは、左翼の鬼子として産まれた。
日本のフェミニズムは、左翼の運動体が、女をシャドウワークに従事させ、セックスの客体としか見なかったときに、その反発として生まれた力だ。

フェミニズムは、生活の中の一つ一つの慣習や伝統に、疑問を持つことから始まる。
間違っても、矛盾しても、生活の中で発見して、言葉を探り、そして、近くの人に、伝え、少しずつ行動することで、力を持つ。
どんな小さなことでも、それが戦いだ。
わたしのフェミニズムは、間違いながら戦うためのもの。そのよりどころ。わたしが生きていくための道具。
誰かにジャッジなんてされたくない。わたしはそれを拒絶する。

正しくあれと言われても、未熟なわたしには不可能だ。そして、未熟さが許されないのなら。わたしは誰にも組み入らない。
傷つき、叫ぶとき、そのやり方ではいけないよ、という人が、わたしのために何をしてくれるのか。
もっと良い子でいるべきだ、というとき、それは、わたしを抑圧する。

抗議した側の手続きが悪いというとき、攻撃した側は透明になる。
偏りがある。
間違ったやり方で戦う時がある。攻撃的になる。なりふり構わなくなる。それを止められたら、わたしの悲鳴はどこにも届かない。
届かないものは、なかったことにされる。
ここに血の吹き出す、傷口があるのに。

c71の著書

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