躁うつ病と自閉症と人格

頭から言葉が零れ落ちてしまいそうだから急いで書く。

躁うつ病も、自閉症も、思考や行動に影響を与える病気だ。
でも、善き人になろうとすること、それを心がけることが、病気への対処法だと思う。

躁状態になって、失言する人は、もともとそういう人だ。
気が大きくなって、普段思っていることが出てしまっているのだ。
だから、不断から、相手の事情を鑑みて、発言する習慣をつけていれば、躁状態になっても、相手の事情を考えて物事を言うだろう。
そうしたら、大きなトラブルにならない。
躁状態と一言に行っても、いろいろな躁状態がある。
わたしはうつ状態よりも躁状態のほうが苦しい。
衝動を抑えなくてはならないから。

焦るとき、行動したいとき、運動したいとき、アディクションに走るとき、さまざまな症状が出る。
楽しい気持ちになる人もいるだろうけれど、わたしは、自分を抑えるほうに力を使うので、躁状態のほうが苦しい。
今回の躁状態は、覚醒の度合いが非常に高いだけだ。

その前の鬱の波は、覚醒度が低く、寝たきりだった。

躁うつ病は波なので、躁状態の時と、うつ状態の時とは鏡合わせだ。
うつ状態の逆の状態が、躁状態になる。躁状態の時にしたことの反映がうつ状態に出る。

躁状態の時行動したら、うつ状態の時には何もできなくなるし、躁状態の時に、落ち着こうと努力していたら、鬱も軽く済む。

うつ状態も、自分の心の在り方を反映する。
自分のことをひたすらに考えている人間だと、うつ状態の時考えるのは自分のことだけだ。
だから、わたしは普段から、人の役に立つことを考えていたい。
それは、自分のためのことだ。病気に対する工夫だ。

生徒さんのことや身近な人を幸せにしたいと願いながら暮らしていると、うつ状態が襲ってきたときに、自分のことばかりを考えて落ち込むという状態は避けられる。人のことを考えられる。当たり前のことだけど、そのほうがずっと楽だ。
自分がどれだけだめなのか考え続けているよりも、どうしたら、人をより幸せにできるのか考えながら力不足に落ち込んでいるほうがよっぽど幸せだ。

そういう工夫で、鬱にも対応することができる。

人のことを考えることが、躁状態と鬱状態の波を、トラブルなく乗り切り、さざ波に変えてくれるのだと思う。
トラブルが起きたこと自体が、自分を動揺させる。人間関係も壊す。

壊していい人間関係と、壊してはいけない人間関係がある。
差別する人からは逃げてよいけれど、思いやりのある人を断ち切ってしまうと孤独になる。
孤独は毒だ。

もちろん、無邪気に踏み潰してくるやつにはどんな手を使っても、乱暴な言葉を使っても抗う。

ただ、それとは別のことを言いたい。

トラブルや失言、人とうまくやれなさを、躁うつ病のせいにする人がいるけれど、躁うつ病はただの渦だ。
渦の中に巻き込まれていたら、確かに、してはいけないことをしてしまうかもしれないけれど、心構えとして、渦を観察する気持ちを持ち、そこに、「渦があるな」と思うだけでも、ずいぶん渦に巻き込まれなくて済む。
渦の観察者になれる。観察者になると、何をしたら、工夫できるのかわかる。

そこに苦しみがある、病気がある、悩みがある、迷いがある、疑問があると自覚するだけで、苦しみは、自分の外になる。
自分の苦しみが当事者としての苦しみから、ただ、そこに苦しみがあるなと、観察する視点をおてるのだ。
そうすると、苦しみは生々しさを失い、遠ざかる。

わたしは、自閉症だから、人の気持ちを読むことはできない。そういう概念がない。読めるのか半信半疑だ。

でも、相手の属性を記憶して、それに合わせて、会話することはできる。
そうしたら。相手の踏み込まれたくない領域が分かるから、相手を嫌な思いにさせることが少なくて済む。
そういう工夫ができる。記憶して、対応する。その繰り返しで学ぶことができる。

どちらも、直すことのできない病気だけれど、自分が善き人間でありたいと願い、それを地道に何十年でも続けていけば、きっと、わたしの症状も和らぐ工夫ができると思う。

人のためにすることが、自分の病気を柔らかくすることの役に立つのだ。
周りの人にも、自分にも優しい解決方法だ。
これは、今日思いついたことだ。

ずっと主治医には自分の病気を観察して文章を書くことが、必ず人の役に立つといって、進めてきてくれた。
その成果が、今日出たと思う。

今日の話は、とても大切な話だ。

c71の著書

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