病気を隠したくなるのはなぜだろう。
不思議だ。
自分自身の中に、病気であることを認めたくない気持ちもある。
病気にかっこわるいもかっこわるくないもないはずだけど(by おたんこナース)、なぜか恥じらってしまうお年頃なのであった。
私が病気になったのは、犯罪に巻き込まれたからだ。
ざっくり言うと、犯罪にあったせいで、世界に対する信頼感が失われてしまったのだった。
後ろを歩いている人が、いつ、私を刺すかわからない。
笑顔で話している目の前の人が、いきなり私を殴るかもしれない。
私は、無意識でも、意識の上でも、そんな風に思うようになった。
一回、起きたことはまた起きる、と私は思い込んでいるらしい。
そのせいで、いつも、周りをおどおどとうかがい、びくびくビックルし、危機に瀕した獣のように、いつでも臨戦態勢、退却可能なように、副交感神経だとか交感神経だとかがいかれてしまった。
毎日凶悪犯罪がどこかで発生している。
私も、もちろん、自分がその被害者になるなんて思いもしていなかった。
あのとき、あの時間、あの道を通っていなかったら…、と思うこともある。
思うこともあるというか、よく思う。
けれど、いくら思っても仕方がないことも事実だ。
起きてしまったのだから仕方がない。
そうはいっても、頭の中を切り替えるのはなかなか難しいので、一日のほとんどを、過去への悔恨で費やしてしまう。
本当にばかばかしいことだ。
時間は過去には向かっていないのだから。
いくら過去を悔いても、それがプラスになることは決してない。
悔恨というのは案外疲れる。エネルギーを持っていかれる。
私にとって、今一番チャレンジブルなのは、朝起きて、一日を「だるい。疲れた」と思わずに過ごすことだ。
本当は疲れていないし、だるくもない。
ただ、現実に向き合うことが恐ろしいのだった。
私は犯罪被害者であることを、極力隠して生活している。
もともと、精神的に安定している質ではなかった。
それで、不安定が加速して、今まで隠していたあらが剥き出しになった。
犯罪に巻き込まれたり、病気になってしまうことは、誰にでも起こりうる。
そこの交差点を曲がったら、その先には、犯罪者が待ち構えているかもしれない。
それは、誰にでも平等に起こりうる可能性だ。
そうしたら、安定した世界から放り出されて、どこまでも落ちていくことになる。
私は無根拠に、恐れ知らずに、自分だけは安全だと思い込んでいた。
こう書くと語弊があるかもしれない。
自分だけは大丈夫だなんて、傲慢な自分に気がついたことは、そもそもなかった。
そういう風に思い込んでいることが、意識にも上らないレベルだった。
だから、私の自意識としては、「明日、朝起きて会社いくのめんどくさいな」と思いながら、生活をしていただけだった。
それが、あの日、あの曲がり角で失われたのだった。