終わらない日常から逃れたい気分は私にもあって、不安定な雇用だとそれには縛られないから少しだけ安心する。
自閉症スペクトラムが高いと言われてから、それを受け入れるのには、九月から昨日までかかった。
昨日突然受け入れられるようになったのだ。
わたしは、当たり前のように努力していた。
努力というのは、した分疲れる。
だから、子どもの頃、わたしはいつも疲れ果てていた。
同じような努力を他の人は必要としていなかったように見えていた。
でも、それは見えないだけなのだと思っていた。でも、そうじゃないことがわかった。
ほっとした。
一瞬、わたしはしないでいい努力をしていたのか、と思って、他の人がうらやましくなった。
でも、すぐうらやましくなくなった。
それはこんなわけだ。
それが、わたしは特別努力した結果、変な人としてではあるけれど、それなりに受け入れられるようになってきた。友達も、ごく少ないけれどいる。いつも会う訳ではないけれどいる。努力は疲れるけれど、報われた。
自閉症スペクトラムの分、そういう努力は他の人にいらないので、他の人はわたしよりも生きやすい場合が多い。
でも、それはわたしにとって、すべてがマイナスになるかと言うとそうでもない。コンテンツ力はその分強まるのだった。
それが、自覚できたことの良い部分だった。
わたしが文章を書くのが好きなのは、自閉症スペクトラムが高いせいもあるだろう。だから、文章を書く内容に、書くべきことが一つ増えたと喜ぶのもおかしなものだけれど、わたしは昔から、文章を書くことを使命のように感じることで、生きるためのよすがにしてきたのだった。卵が先か鶏が先かわからない。わたしは文書を書くことが好きだ。わたしが本を読むことで「あなたは一人じゃない」と本に言ってもらってきたことと同じことを、文章に返したい。一人でもいいから、わたしの文章を読んだ人が、わたしと会話したような気分になってほしい。たとえば、孤独な深夜にだとか。
それに、わたしは、他の人からうらやましいと思われる能力がいくつかあった。今はそれを使う機会はないけれど、他の人はわたしをうらやましいと思った機会があったのだ。
今の仕事は、自閉症スペクトラムが高いわたしでもやりくりできる人間関係しかない。給料は安い。今後もあがらないだろう。どうにかしてお金を稼いで生きていかなくてはいけない。
終わらない日常を生きろとか、希望は戦争とか、言っていた人は、震災があってから、どう変わったのだろう。
わたしはそれがとても気になる。
ほら、あなたたちの望むようになったよ、と言いたくなる。
ほら、あなたが望んだように、あなたが自分で気づかなかった、あなたが恵まれている部分が、終わったんじゃないか、健康だとか、精神衛生だとか、社会で共有していた公共物だとかが破壊されて、あなたはより裕福になれただろうかと。
わたしはといえば、震災は直接関係がないものの、終わった日常を眺めて途方に暮れる時間もなく、日常を立て直さなくてはならないと思った。
日常がなければ、寂しすぎる。やってられない。
わたしは、日常を立て直さないでいようと思えばいられただろうけれど、それは望まなかった。
なぜ望まなかったのか、多分答えの一つは、わたしは体を持っていたからだと思う。
体は、生きることを望んでいた。
パニックとフラッシュバックとうつとそうの繰り返しを止めたがっていた。
もっと、きれいに世界を見たいと願った。その願いは体が出した。そういう願いが、泡の様に浮き上がってきたので、恐怖と不安の中でも、良くなりたいと願わずにはいられなかった。
日常がなければ、一日ベッドで過ごすことになってしまう。
今日わたしは、ご飯を食べようと決意するまで、ずっとベッドでゴロゴロしていた。ご飯を食べたら、すぐに起きられた。
あの無駄な午前中はなんだったのだろう。不安に怯えていた。
パニックが起きそうだった。
今日はご飯を炊いて、明太子と、粉ふきいもでご飯を食べた。こんな簡単な食事でも、粉ふきいもは、ちゃんと作ったものだから、おかずが一品しかなくても、それほど荒んだ感じはない。ちゃんと盛りつけもした。
そういうことは、とてもめんどくさいけれど、鍋から直接食べるようなことをしていると、心がぼろぼろになってしまう。
今の上司に、今の仕事は適職だと思いますと言われた。
そんなことを今まで言われたことはなかったので、感動した。
わたしは、日常が少しずつ立て直せてきただろうか。
わたしには、欲しいものが少しずつ出てきた。
欲を満たすことができる強力なアイテム、それはお金だ。お金は働けば手に入る。ならば、働こう。
わたしは、しばらく欲のために生きようと思う。
過去の悲しいことを思い出したいと思うことよりも、欲の方が、願わくば強いことを。