客観的に見れば、わたしは、幸せを感じてもいいと思う。
いろいろあったけれど、病気は快方に向かっているし、仕事も順調にいっている。そりゃあ、言い出せばきりがないし、お金ももっと稼ぎたい。だけど、自分の時間を持てるという意味で悪くない仕事だ。
わたしは、容姿を「お人形さんのよう」と言われることが多かった。
わたしは、文字通りに受け取っていて「人形のように表情が硬い」のかと思っていた。
賛辞を賛辞として受け取ることができなかった。詳しく言うと、賛辞を賛辞として認識していなかった。
(こういう感覚なのは、自閉症スペクトラムが強いせいなのかとも思う。気がついてみると、ずれている。なんでもかんでも自閉症スペクトラムのせいにするのは馬鹿の一つ覚えのようだが)
そういうのは、もったいないから、これから止めようと思う。
このようなずれのようなものが、幸せを感じるセンサーにも起きているような気がする。
最近、若い、綺麗な顔の人を見るとお人形のようだと思う。それは、硬いという意味で思うのではなく、美しいという感想だ。だから、わたしも顔が整っていたのかもしれない。
でも、今はあまり言われない。だから、「それなら、ほめられたときに、ほめられたと思って、喜んでおけばよかったな」と思った。
わたしは、近頃「綺麗」「優しい」「可愛い」「笑顔が優しい」と言われることが多い。少し柔らかくなったのかもしれない。人形のようだとは言われなくなった。
以前のわたしなら、「お世辞だろう」と素通りしてしまったり、「容姿にこだわるのは良くないことだ」と嬉しい気持ちを押し殺してしまっただろうと思う。
うっかりすると、今でもそう思う。
だけど、いつまでも、こんな風にいってもらえるわけじゃないから、喜ばないといけない、と思った。
しかし、そこがくせ者で「喜ばなければいけない」と思う時点で、何か引っかかっている部分がある。それは、心の癖なのだと思う。
わたしは、自分のことを人と良く比べる。比べて、なんて、わたしはだめなのだろうと思う。
それこそ、人と比べて、良いところもたくさんあるし、人からそのことをほめられることもあるのに、そのことは棚に上げて、悪いところばかり気にしてしまう。
わたしは、幸せを感じる条件が整っている。病気になったのは残念なことだけれど、人生が病気に乗っ取られることを防ぐために、仕事に就けた。人間関係もある。アルバイトに近いとはいえ、仕事を任されてもいる。人からは感謝されるし、ほめられる。
わたしは、幸せを感じたい。
幸せにならなければならない、というところを抜けたい。
幸せを感じなければならない、と強迫観念を抱く心から抜け出したい。
抜け出すためには、無理矢理にでも、「ああ、わたしは、これを幸せと呼ぶのだ」と、自分に言い聞かせて、教えて、学ばせたい。
「ほら、けっこうつらい局面もあったけれど、それなりに頑張って、一つ一つ取り戻しつつあるよ」と。