本を読んでも東大には入れない

本をどれだけ読んでも東大には入れない。そこには関連性はない。

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これは、誘導的な質問だ。

テレビを見ていても、東京大学に入れるし、テレビを見なくても、入れないときには入れない。
受験は、体力と学力の問題だから。

ご自由にと言われて、素直に本当に自由にできる子供がどれだけいるだろうか。

家庭が、どのようなものでも、子供の「テレビを見ること」について、とやかく言うことと、関係はない。
親がオタクであっても、子供は自分自身で自分の嗜好を探っていく必要がある。
そのための子供時代だ。

親が、オタクであるからと言って、理解があるとは限らないし、誘導的な質問をしていい理由にもならない。
誘導的な質問をされると、思考が制限される。命令には反発できるが、誘導的な質問に対しては「自分の意思で選んだこと」という外見を保つからだ。

生きることは無駄だ。
生まれないでいるのが一番合理的だ。でも、誰かの都合で生まれてしまっているから、生きている。生きているから、仕方がない。

娯楽は無駄だろうか?長い人生の二年くらいテレビを見続けている時期があってもいいのではないか。
小学生の子供にとって、友達と話題を合わせて、同じ体験を共有する体験は、勉強よりも得難いことだ。

考えさせるポーズをとると、親に反発しにくくなる。それは不健康だ。命令したほうがずっといい。

親が望む答えを言うのが子供だから。子供は親を愛しているので、親の願いを察知する。

東京大学にレゴ部があると信じているような幼い子供に、東大にいくことを目標づけたのは誰の欲望なのか。子供自身の欲望と、それは区別がしにくい。

何かが得意になることをやみくもに目指して、娯楽を減らすのは、非常によくないことだ。心身の健康を壊す。
わたしは主治医にテレビドラマを見ることを勧められた。人間関係や、流行りのもの、ほかの人の考えを吸収するのに役立つからだ。

小学生の勉強は、六年生の一年ですべて取り返しのつくものだ。六年かけるのは、発育を促すためだ。

本を読んでも賢くはならない。何かの技術を身に着けることにもならない。興味があることがあって、楽しみで自発的に読むのは素晴らしい孤独な体験になるが、東京大学に入るために、本を読んだほうが自分の利益になるから本を読む、というのは、発想が貧しい。

人生は無駄の連続だ。人生には無駄があると教えてくれるのが読書のいいところだ。読書をしている間は、自分の中に起こることだけに集中できる。外部的には、じっと止まっている。外界と離れて、内面世界を豊かに育てる効果はあるが、それは、外的な出世や、目立つことには役に立たない。

わたしは、テレビの時間を一日三十分と言われていた。それは、帰宅してから、お風呂に入って、食事をして、宿題をしてから、九時に寝るためには、そうしたほうが良かったからだ。わたしは不満いっぱいだったが、納得もしていた。子供は早く寝るものだと教えられていたから。

三十分テレビが見られるということは、みんなが見ている番組の一つは見られるわけなので、「昨日あれ見た?」という会話についていけなくはなかった。漫画や本は自由に読めたので、漫画の話もできた。小学生の間は、毎日一冊から二冊読んでいて、土日は、一日五冊くらい読んでいた。

中には、法律の本や、戯曲、シェイクスピア、心理学の本や、そのときどきで興味のあるアート系の本も読んだ。タイトルしか見ないで本を選んでいたので、作者が同じ人を表すラベルだと知ったのは、十歳くらいのことだった。それくらい、早く本を借りたかったし、たくさん読んだ。作者に興味を持つのが遅れたくらいに。明治、大正、昭和の主だった小説はこのころ読んだ。全集が学校の図書館にあったのは幸運だった。

それは、勉強のくだらなさを教えてくれたし、今、うまくいっていなくても、人生は長いということを教えてくれた。エリートになっても、苦悩はあるし、身を持ち崩す人もいる。病気になって、不遇をかこつ人も致し、戦争で死ぬ人もいた。運良く生きられる人もいて、何もかも運なのだと思った。

好きだったのは、リンドグレーン、ミヒャエルエンデ、G・マクドナルド、そういう児童文学も好きだった。エルマーと龍も懐かしい。親にどの本を読め、これは役に立つといわれたことはなかった。お年玉で、SFを買いあさった。

本を読んでいるばかりなので、親は心配して、運動させたり、自然と接するように、いろいろなイベントを企画して、連れて行ってくれた。幼稚園児のころには、糸鋸を使って工作をした。裁縫も習った。編み物もできる。農業もした。泥遊びも随分した。走ることは苦手だったけれど、木登りは得意だった。DIYは今でも楽しい。花の名前や美しさ、はかなさ、自然の厳しさ、五感を使う経験があったから、本を読んだ経験が、実際のものとして感じられた。

木の上で、桑の実を食べながら、夕焼けを見たこと。風に吹かれて眠ったこと。

影法師を眺めて、影送りをしたこと。
友達同士集まって、漫画を読みふけった午後。
夏休みに見た、怖い話の特集。朝寝坊。
沢蟹をとってきて、廊下で競争させたこと。
松脂で爆弾を作ったこと。神社でかくれんぼをしていたら、見つけてもらえなくなったこと。けんか、いざこざ。
帰り道の、夕日に照らされた線路のラインと警報機のカンカンという音。

暗くなる前に帰らなきゃという、縛りの中で遊んだこと。いつまでも眠ってぼんやりしていたこと。蝉の声を聞きながら、暑さにうだって、ブナの木を眺めていたこと。
それらは、無駄な時間だろうか。無駄って何だろうか。楽しい経験があれば、つらい出来事に直面しても、生きていける。

無駄って何だろうか。本を読んでも、役に立つ、お金に直結するスキルは身につかない。
テレビを見ると、自分の家庭のおかしいところに気づく契機になる。それは、無駄なことではない。相対化するためには、メディアと接することが必要だ。多感な時期に、面白い番組を見ること、音楽を聴くこと、PVを見て、映像の撮り方には個性があって、音とハーモニーを重ねて、たった五分で一つの世界を表現できるのだと知ること。それらはすべて無駄であり、無駄じゃない。

何を無駄かということを、誰が軸に置くのだろうか。誘導的な質問を重ねても、その答えは出てこない。
自分自身の中で、腑に落ちるためには、少しずつ、様々な経験を積んでいくことが必要だ。

何も考えない時間は、何もしない時間は、無駄だろうか。生きるためには必要なことだ。生きることは必要なことだろうか。わたしは生きることは無駄だと何度でも言いたい。

子供は先のことが分からない。分からないうちは、誘導的な質問をするべきではない。そもそも、東京大学に入るのは、有益なことだろうか。無駄なことだろうか。それも、わたしにはわからない。

勉強は、大人になってからでもできる。そもそも、読書は無益なことだ。何も得意にはならない。
世界を広げること。それだって無駄なことだ。
決められたことを効率よくして暮らすのが、無駄のない生き方だ。誰にでもうらやましいといわれるような大学に入って、うらやましいといわれるような職業についたら、安心かもしれない。
でも、安心のその先には何があるのだろう。疑問に思わない生き方もそれもいいのかもしれない。生産性が高いのだから。
誰にとって、生産性が高いのか、ということまで考えることが大切だ。

自分のしたいことを、自分のやりたいようにするのが、わたしにとっての幸せなのだけれど、幸せと、「生産性」という言葉は結び付きにくい。

その先を考えるために、世界を広げることが大事なのだ。それは無駄だ。無駄は、脆弱性を防ぐ。できることや、得意になることが増えなくても大丈夫だ。

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