何かが得意だということ

昨日、生徒さんが、「学校の先生が正論をいうのでつらい」と言っていました。
その先生は、勉強がとても得意なそうです。
「正論をいわれると、逃げ場がないから傷つくよね」という話をしました。
「それなのに、その先生は人気がある」というので、話を聞いてみると、
「意地悪を言っている訳ではない」「一生懸命」「眉間に深い皺が寄っている」とのことなので、
「意地悪を言っている訳じゃない人で一生懸命で欠点がある人は愛されるよ」と話してみました。

「わたしは、教えるにあたって、自分がどちらかというと勉強が得意だということを忘れないようにしようと思ったの。勉強が得意だと、ちょっとの手間で、公式が覚えられたり、解法が理解できるから、できないひとのことを、そのちょっとの手間を惜しむ人だと思ってしまう危険があるから。だから、自分の苦手なことを思い出して、誰でもできることなのに、自分ができないことと同じように考えるようにしているの。
その先生は、苦手な分野に苦しんだ経験が少ないか、ひきつけて考える習慣がないのか、それとも一生懸命な先生なのかもね。だから、どうして、できないのか、理解できないか、ちょっとの手間を惜しんで勉強できないと思っているかしているのかもしれないね」

ということを話しました。

何かが得意だということは、それが簡単に感じるということです。
だから、苦手なことの何倍も良い結果が出せます。ちょっとの手間で。

学校という場所で、勉強をする、ということは、何が得意か、何が苦手か、学ぶ場所なのだなと思いました。
勉強が得意だと、苦手なこととはどういうことか、学びにくくて、人生のその後がたいへんな時もあるかもしれないと思いました。

話は変わりますが、簡単に感じることを仕事にすると人生が楽かもしれないです。
わたしは苦手なことを一生懸命頑張って埋めていこうとしていましたが、人生も中間地点に来たので、得意なことだけをやって生きていきたいです。

書類仕事は本当に苦手です。
逃げたいです。

c71の著書

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