まんことちんこの法律論

三権分立は、法律を作ることと、法律を運用することと、法律で裁くことを別にしています。

それは、恣意的な運用を避けるためです。

今日は、わたしが考えたことや思ったことを知っている範囲の知識で書きます。

ろくでなし子さんが逮捕されました。
たくさんのひとがショックを受けました。わたしもショックを受けました。黙っている方が良いような気がしているうちは書かないでおこうと思っていたのですが、わたしなりに書けることがある、書きたいと思う気持ちが高まったので書きます。

わたしは個人的にはろくでなし子さんの活動が好きです。
性におおっぴらだと怖いと思うひともいるのを知っていますし、隠してこそありがたみがあると思うひともいると思います。

わたし個人は隠したいひとは隠せばいいし、おおっぴらにしたいひとはした方がいいと思います。
でも、今はその選択ができません。

たとえば、子宮内膜症を患っているときがありました。
わたしは内診が平気でした。
それは医療行為だからです。

でも、それをことさらにいやらしいことのように受け取る文化があることを知って驚きました。
それはとても愚かしいことです。
からだの一部の話を自由にしたいと思います。
病気の話をするのがどうして悪いのでしょうか。いやらしいのでしょうか。いやらしいとはなんなのでしょうか。
医療行為をいやらしいと感じるひとの品性が、卑しい、さもしいのではないでしょうか。

わたしの場合、エロいという単語の意味を未だにわかっていません。

裸や、性器そのままだとエロティックだとは思いません。裸だなあと思います。
それに意味をつけるには文脈が必要だと思います。

今はからだの話をするのにも、気を使います。

アートは既存の社会を攻撃するものもあります。既存の社会を攻撃しないアートもあります。それらは、政府や国家に守られます。例えば、会田誠さんのアートは後者に属するでしょう。彼のアートは守られていることからそれは明らかです。

ろくでなし子さんは、まんこに、エロ以外の文脈をつけ、違う意味をつける活動をされていました。

ろくでなし子さんのアートは攻撃的なものです。
だから、いろいろなひとがショックを受けたり、嫌悪感を感じたりするのは当然の反応だと思います。

男性の性器を祭り上げるのはいたって普通のことです。
女性の性器を表に出すのは普通のことではありません。なので、ひとはショックを受けます。男性の性器に関して、ひとがショックを受けるのは、それを傷つけたときです。男性の性器を傷つけることは反社会的なものです。女性の性器が反社会的になるのは、それを「存在する」と気づかせる行為そのものなのですが、男性の場合は、「性器を傷つける」ところまでいかないと反社会的にはならないようです。

なぜならば、国家は法律によってできています。縛られていると言ってもよいです。
その縛るための法律を作っているのは、ちんこを持っている人たちです。男性とは、日本では、基本的には男性の性器を持っているひとが戸籍に登録されます(例外もあります)。なので、ここでは男性のことをちんこを持っているひとと書きます。

だから、国家は、ちんこを傷つけるひとがいると聞くと、大きく驚き、急いで行動します。
また、まんこがあらわにされたと知ると、慌てます。
国家はちんこが支配しているのです。

ちんこを持っているひとが立法し、運用し、司法します。
ちんこをもっているひとの価値観で、じぶんたちにとって「いやらしいもの」「性的な気持ちを呼び起こされるもの」を規定します。だから、日本において、法律の上では、女性の気持ちは「ちんこを持っている人たちが想像した女性の気持ち」ということになります。
ちんこを持っている人たちは、自分たちがまんこにたいして、いろいろな気持ちを持っているものですから、まんこを持っている人たちも同じような気持ちでいるだろうし、そうでいてほしいと思っているのだと思います。

まんこを規制する法律はたくさんあります。中絶、売春、わいせつ物をみせてはいけないことなどがすぐに思い当たります。それは基本的に、まんこを持っている人たちを縛るものです。

まんこを持っているひとを縛る法律を、作るのも、運用するのも、使うのも、全部ちんこをもっているひとたちがしています。

これって、三権分立が保たれていると言えるでしょうか?

同じ立場のひとが、一方的に、恣意的に法律を使えてしまいます。そうすると、まんこを持っているひとたちの人権が守られません。

外側からは、別の組織が動いているので、三権分立が保たれているように見えますが、本来の三権分立の魂からはかけ離れた状態だと言えると思います。
一人の王様の横暴から、身分の低い民衆の人権を守るというもともとの意味です。

良く知られているように、日本では、まんこを持っているひとたちの人権はあまり守られていないのです。一種類の価値観を持っているひとたちが一方的にいろいろなことを決めてしまえるからです。それはひとりの王様しかいない国家であるのと同じことです。こと、まんこに関しては、一見、国家の運営にたくさんのひとが関わっているように見えますが、多様性がないため、ひとりの王様が好きなように振る舞っているのと同じことになってしまうのです。

身分の低い、しもじもの人間であるひとたちが、国家に対してできるひとつの攻撃の仕方がアートです。

そして、それが成功したため、ろくでなし子さんは逮捕されてしまったのだと思います。

わたしはひとりのまんこを持った生き物であるため、この文章を書きました。

c71の著書

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まんことちんこの法律論」への2件のフィードバック

  1. たしかに、男性器にくらべて女性器は明らかに隠匿される社会ですよね。子供の頃から、チンコとかチンチンという男性器の俗称は大っぴらに浸透しているのに女性器の話がタブー視されるのは何故なんだろう…という疑問を持っていたのですが、社会的に根深い問題をはらんでいるんですね。ろくでなし子さんの逮捕の報道のされ方についても、マスコミの操作性を感じました。人騒がせで扇動的な変わりものが捕まったよー、困るよねー、で片付けちゃう感じ。性の問題は難しい。

  2. 性の問題は不公平なのがいやだなー。と思います。
    これは渾身の記事だったのですが、あまり読まれなかったのでさみしかったです^^。
    権力を握っている性別のひとのさじ加減で決まってしまうことが多いと思いますね。

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