「ああ、わたしは容姿端麗でもなく、頭脳明晰でもない…」
比べる相手が悪いと思うが、ネットというのは、すべてに恵まれている人(のそのような部分)が目に入ってしまうのである。
わたしは鏡さえ見なければ、容姿端麗だと思い込めるし、誰とも会話しなければ頭脳明晰だと思い込める。
言葉にすると笑ってしまうけれど、今日一日、自分が、容姿端麗でもなく、頭脳明晰でもない事実に落ち込んでいた。
わたしはあまり賢くないのだ。
友人にもそう言われたし、自分でもそう思う。
たいていの人は頭脳明晰でもなければ、容姿端麗でもないのだけど、視野が狭くなっているので、そういう事実は頭から抜け落ち、自分のことでいっぱいになり、「頭脳明晰でもなく、容姿端麗でもなく、老いるばかりで社会的地位もお金もない自分」のことを延々と考えてしまう。
惨めである。
そういうとき、自分が小さく社会に根付いていることや、自分をコントロールしようと頑張っている事実は消え失せる。努力していることだとか、人に愛されている部分もあることも忘れてしまう。友だちがいることや、大事にしてくれる人や、お医者さんやヘルパーさんが助けてくれることも忘れてしまう。
容姿端麗だということも、頭脳明晰だということも、もう手に入らないことだ。
若い人の方が美しいし、容姿を仕事にできる人は生まれもっての才能がある。
頭脳明晰になることも難しい。わたしは全体のバランスを見ることが下手なので、部分的な最適を考えることはできるが、全体について考えることや、自分の利益について考えることも苦手だ。
ああ、なんでわたしは容姿端麗じゃないんだろう。
容姿端麗だったら気分が良かっただろうなあ。
容姿端麗であることにもそうでないことにも理由はないんだよなあ。悲しいなあ。
人間の価値ってなんでしょうか。
たいていのひとは、容姿端麗でもなく頭脳明晰ではない。
でも、そんな中にも、自分の存在価値を見いだして、自分はここにいる、存在しても良い、こういうところが良いところだ、と思えるようにならないと、生きるのがつらくなってしまう。
今わたしはつらい。
わたしの軸が、「容姿端麗」「頭脳明晰」の二つの軸しかないからだ。
だから、つらくなってしまう。
そうではなくて、自分の得意なところ、良いところ、人に左右されない観点で、自分で好きだなと思える特徴を、人生における大事な軸に変えてしまったら、人生が楽になるんじゃないかな、という予感がある。
そこに軸を置かないで、美しさ、賢さだけじゃなくて、他の良いところに自分自身が価値を感じられるようになれば、自分が美しくて賢くならなくても、生きやすくなるのではないだろうか。悲しくなる回数が少ないのではないだろうか。
そういえば、綺麗な色の服が着たい。自分を喜ばせたい。
そうしたら、容姿端麗で、頭脳明晰でなくてはいけない、なんて、笑っちゃうようなくだらない価値観が頭の中から消えてくれるんじゃないかしら。
それが生活の工夫なのだ。きっと、そうだ。