依存を超えて自分を生きる

山口達也と非生産(田房永子さん)

この記事を読んでいろいろと思うところがある。

わたしが真に困ったときに、贈られた言葉で「自分を生きてください」というのがあった。

「自分が生きる」が「自分を生きる」になったとき、自由になれますと言われて、心が強く動かされた。

わたしは、依存心の強い人間で、いろいろなものに依存してきた。人に依存したときは最悪だった。お互いに。

出産後、依存することが減った。過食傾向があったけれど、食べることにも依存しなくなった。

この記事を書くにあたって、「子供に依存してるのかな」とも思ったけど、それも違う。

ということを書こうと思う。

以前、田房永子さんの「キレるわたしをやめたい」について「この場面はキレていいと思う」という感想を書いた。それは今でも変わらないんだけど、産後「キレる」ということが増えた時期があったので、「このことを言っているのか」と思った。

たとえば、哺乳瓶を洗っていると、頭の後ろのほうで、パンっとなにかはじけるような感じがして、そのまんまキレてしまう。

怒鳴って、伴侶をたたき起こす。何やってるんだよ!と。

それで、いろいろ対策した。

振り返って、スローモーションで再生すると「頭の後ろのほうに白い塊がわく→それが破裂する」の間には、「なんでわたしばっかり」という気持が隠れていて、その気持ちが「今もそうだし昔もそう」ということを訴えていた。

生まれたときからの恨みがそこにあった。

生まれたときからの恨みを解決するのは難しいので、「わたしばっかり」と思ったら、とりあえず、それをするのをやめようと思った。

キレて家がぐっちゃぐちゃになるまで泣くより、わたしが育児をしないほうがましだという言い訳もあったけれど、それより、恨むくらいならやらないほうがわたしのためだと思ったから。

ましだからだとかなんとかとか、人や自分に言うための言い訳もやめたかった。

わたしがしたくないからわたしはしない。

そういうシンプルなことが大事だろう。

実際には、子供の世話をしたくないといっても、それを代わってくれる人がいないと実行できない。だから、伴侶に頼んだ。

それ以来あまりキレていない。

だから、そういうことなんだろう。本当はしたくないのにしなければならないからしている。だから、しなくてもいいように状況を整えて(そうすることで責任を果たして)、しない。

伴侶には負担をかけて申し訳ないと思うけれどキレたってどうせ負担はかけるから、彼が嫌になったらその時話すしかない。わたしはどうしたって、わたしでしかないから、恨んでキレるか、恨まないで生きるかしかない。

それでも暑い日にはキレることもあるので、キレそうになったら、薬を飲むようにしている。漢方薬も飲んでいる。効いていると思う。

依存をしているときは、単調な刺激をひたすら摂取して、脳を使わないように、刺激で満たして、時間をショートカットしている。幽体離脱と同じだ。今を生きていない。だから、そういうときは、生きている実感がないし、時がたつのがとても早い。それで、自分の人生がいつの間にかまた知らない間に失われてしまったと嘆いて、また恨む。自分の人生を親とか子供に盗られてしまって自分のしたいことができてないと言って恨む。依存しているときにはそれに夢中だから何も考えなくていい。考えているつもりだけど本当の意味では考えていない。

「考えるのをやめる」ことと「依存をやめる」ことは似ている。

考えることをやめるのは思考停止みたいだけど、思考することで生きるのをやめるという状況がある。それが依存。食べることを考えていて食べていてどう食べるかいかに食べるか、それしか考えていない時って、頭使っているようで使っていない。食べることで生きている感覚を取り戻し、そして、食べることで思考をマヒさせる。

だから、食べることについて考えることを止められてようやく生きるみたいな感じになる。

食べることばかり考えているときとか、あと何時間したら睡眠導入剤(以下睡眠薬)を飲めるかだけ考えているときは、生きてはいるけど人生を生きていない。「わたしを生きて」はいない。人生がつらい時、ひたすら睡眠薬を飲める時間を待っていた。睡眠薬を飲むとぼんやりするから。そのぼんやりを「思考が研ぎ澄まされている」ように錯覚しているときもあった。別に何でもいい。睡眠導入剤じゃなくても、過食でも、なんでもよかった。

 

自分が人生を生きなきゃ死ぬってことが本当に腑に落ち始めたのは、五年前が始まりだったと思う。それまでどうやっても無理だった。親を捨ててからようやくやめられた。それまでは「自分で好きなように人生を生きるのは親に悪い」と思ってできなかった。親と縁を切って親に対して理由を説明しなくなってからよくなった。理由を伝えて説得しないといけないと思っていたから、依存しないといけなかった。説明をしなくてはいけない立場は常に弱い。

わたしの親は「理由」をとにかく求める。納得しない。だから、いつも理由を考えて行動していた。そういうのは、わたしのためじゃなかった。親はわたしのためだと言っていた。でも、わたしのためにはなっていなかった。

 

自分が自分を生きないと人生はこのままなくなる。もうすでに30年なくなっていたのに!なくなってしまった!親を許せない。苦しい。憎い。殺してやりたい。

という思考と、

親を許せないが、過去のことを反芻していたらさらに現在が失われる。

という現実の間で五年間苦しかった。どちらも本当だった。

 

親を許せないという気持ちを紛らわせるためにライフステージを進めることが必要だった。友達を作って、居場所を作って、お金を稼いで、伴侶を得る。生活の基盤を確保する。根無し草にはもうこりごりだ。根無し草のままだと子供として扱われて親に入ってこられてしまう。

そういう危機感があった。こんなに明確に思ってはいなかった。明確に思っていたら、相手に悪いと思って、行動できなくなっていただろう。

幸い、みっともないことをなりふり構わずした結果、伴侶を得て、生活の基盤も落ち着き、子供も授かった。

子供を見ていると、子供は成長しようとする方向性を持って生まれていることが分かる。成長は親と距離を広げるということだ。成長すればするほどどんどん離れていく。胎児から新生児、新生児から首が座り、寝返りができ、腰が据わり、ハイハイをする。抱っこする時間がどんどん減る。向こうから来たいときに来る。ハイハイし始めてから、一人遊びの時間がどんどん増えた。子供が親と距離を取るのは自然なのだ。生まれたときから決まっていることだ。それが腑に落ちた。

わたしは、親と別の人間だったのに、侵入されていたから、バランスをとるために、依存をしたり、体や精神のバランスを崩した。親がいなくなれば、原因がなくなるので、元気になった。

依存は生き延びるための手段でもある。依存症や、病気になるから生き延びられるということもある。でも、その生き延びるための手段を捨てて、生き延びる以上の生き方をすることもできる。

 

 

わたしは、田房さんという作家に特別な思いを抱いている。

同世代の似た属性の作家さんだから。

そういう、関係あるような関係ないようなことを考えてこの記事を書いた。

 


【女装して一年間暮らしてみました】の裏切り【感想】

ふむふむと読むことができる部分があったけれど、最後に残ったのは落胆だ。

男が女装をするとき、そこには選択肢がある。

女にはない。女は嫌になったからと言ってやめられない。男が女装して女として暮らしても、止めることができる。

わたしたちは、スカートや下着を楽しむことができる一方、それを拘束着としても感じる。

ハイヒールは痛い。したくてするのと、したくないのに、義務や圧力からするのとは違う。目立つと、たたかれる。自分を表現する服装にたどり着くのは難しい。わたしにとって、女の格好をすることは、自由を獲得する行為でもあるが、その一方で、圧力によって装うからだ。

男の服装は、彼の言うようにシンプルだ。ズボンを履いてシャツを着て、ジャケットを着れば事足りる。

女はそうではない。爪が引っかかれば一瞬で破れるストッキングは一枚500円で、それを穿かないとマナー違反だと言われる。

はきたくてはく人もいるだろうが、そうじゃない人もいるのだ。

最後に、女性が変わるべきだと、メッセージを送って、女装をやめたくだりには、失望した。失望、がっかり、一年間してみて、その感想だったのかと。

男が女性に持つ妄想と、女が男に持つ妄想と、どちらがきついかと言えば、男の持つ妄想のほうだ。男は、女の体を扱う時、「女は痛みを感じない」という前提で触れることが多い、わたしはそういう経験をした。

たしかに、女が男を人間として見ないで、「理想」の型にはめることはある。

でも、男だって昼は処女、夜は娼婦みたいな妄想を持つ。どちらが有害か。

彼は、女が男に対する妄想をやめればいいというようなことを言った。そこから男は変わると。男は変わりたがらないからと。

それはとても卑怯だ。彼は、性暴力の被害に遭った。女の姿をしたら、どれだけ暴力にさらされているのかわかったはずなのに、「女に変わることを求めた」。

男は変わる気がないから、変えるとしたら女が変わるべきだと。

では、あなたは男ではないのか。男として、男を変えることができるはずではないのか。女が男を変えるよりも、ずっと楽なはずだ。なにしろ、彼は男の中でもエリートで、男に対する影響力があるから。

女には、男に対する影響力はない。

女装は、女にとって、楽しみである一方、苦しいものでもある。

それを彼はごまかした。

彼の中の女の部分を大切にして、彼が解放感を味わい、本当に生きる実感を得たのは素晴らしいことだと思う。

でも、たった一年間でなにがわかったんだろう。

上澄みだけ。

男が女を人間として扱わない経験を彼はした。男友達は失せ、暴力にあい、軽視された。

男が女を人間として扱わないのに、どうして、女が男を変えることができるんだろう?

こちらが何をいっても、人間がしゃべったと思ってももらえないのに。

生まれてからこのかた、女として扱われることが、どれだけつらいか、彼はたった一年で音をあげたことからもわかるだろう。

彼はそれをわかっているのに、女に変われと語った。欺瞞だ。

彼は、その経験を持って「男」にアプローチするべきだった。

女に語るのではなく。彼はきっと、女に語るほうが負担がなかったのだ。

女の姿をしている間、男に暴力を振るわれたから。それで、簡単なほうを選んだ。

わたしは、だから、読後、騙されたような気分になった。


「キモイ」は女の武器になる言葉

女には拒絶の言葉も罵り言葉もない。

言葉がなければ、従順に、なにかも受け入れらしかない。Fwordがないから、素早く罵れない。

女は、怒ってはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけない、という抑圧がある。

「やめろ」ではなく、「やめてください」と頼まなくてはならない。

もし、「止めろ」と言ったら、「非常識で同情できない」と言われる。

「キモイ」という言葉は、感覚的な言葉だ。

男の言葉が「理屈」「説明」的な言葉だとすると、対極にある。

だからか、男は「キモイ」という言葉を嫌う。キモイと言った女性を、頭が悪いと非難する。男への差別だと言ったり、フェミニストが罵倒語を使うなんて、と言ったりする。

説明をするのは男性の文化だ。彼らは、感覚的なものをバカにする。説明しろと強いる。

それを無化する可能性があるのは「キモイ」という言葉だ。

相手に、やめてくれ、こういうことはしないでと懇願せずに、使える、唯一の拒絶の言葉だ。

キモイという言葉は、時として「相手を理解しようとすることをしない最低の言葉だ」と言われる。

でも、考えてほしい。男たちは、こちらの「キモイ」という言葉を理解しようとしていない。経緯も払っていない。

キモイと言われた男は逆上する。自分を虐げる女という風に認識する。

ただ単に拒絶しただけなのに、被害者みたいなことを言う。胸糞悪いことに、フェミニズムが連綿と紡いできた言葉を盗んでまで、否定する。

女には乱暴な言葉が許されてない。もし、乱暴な言葉を使ったら、物理的に、攻撃されることだってある。

「キモイ」という言葉は、数少ない、「お前には用はない、お前はわたしに近づくな」という意味を持つ言葉だ。これは、女の言葉だ。だから、男は否定する。

わたしたちは、相手を理解しなくていい。ずっと、わたしたちは、男を理解しようとしてきた。でも、男が女を理解しようとしてきただろうか。

お前を理解しない、とわざわざいう必要もない男と対照的に、女はずっと説明しろ、わかるようにしろと言われてきた。その「わかるように」のゴールは、男によって、位置を変えられてしまうから、相手を納得させることは構造的にできない。

相手は理解したくないから、ゴールの位置を勝手に変えてしまう。

それを防ぐのは「キモイ」という言葉だ。

お前はキモイ、だから関わるな。そういう意味がある。

だから、キモイという言葉を、わたしは悪者にしない。

丁寧な言葉で説明して、こちらの領域を侵害され、攻撃されてきた。それをはねのける言葉が女にはなかった。

キモイ、という言葉は、その始まりだ。わたしは、キモイ、と言う。相手を理解することを拒む。相手には私に対するリスペクトがないのだから、わたしもリスペクトを持たない。


生産性の中に出産育児家事は含まれない

出産なんて生産そのものだと思うけど、世の中の人が「生産性」というとき、出産は入っていない。それどころか「生産性を落とす理由」として語られるくらいだ。

出産、育児、家事。それらがないと、誰も生きていられない。存在しない。

それが生産でなくて何なのか、と思うけど、「報酬が生まれるものを生産と定義しましょう。ちなみに、何に対して報酬を出すかはこちらが決めます」ってされちゃったばかりに、今のところ、出産には報酬が出ないので、出産は生産として認められない。

誰が評価するのか、ってことが、「透明」になっているうちは、「その誰か」は批判されない。批判する人たちは常にいるんだけど、その人たちは「反社会勢力」っていわれる。

まあ、実際、社会の成り立ちがおかしいって言ってるんだからおかしくないけどね。


子供はエヴァンゲリオンの気持ち悪さを理解できない

14歳のころ、エヴァンゲリオンが放送されて、「なんかかっこいいアニメ」と呼んでいた。ロゴが読めなかったからだ。

テレビ放送時の紙芝居のもみたし、えのぐをぐちゃぐちゃ塗ったみたいなバトルシーンも見た。

ミサトはなんかエロかった。

でも、今見るともうミサトが無理すぎる。

ゲンドウがミサトに命令して、ミサトはシンジと暮らす。

ありえないよね、上司と部下が一緒に暮らすなんてさ、しかも大人と子供だよと高校生に言った。

高校生は言った。

「気を使うからダメってことですか?」

あー、まだ、こどもだからわからんのか、と思った。

「学校の先生がある日、おまえんち住むわ、つって来て、裸でビール飲んで、お前家事が下手だとかあれやれとか言った挙句に、キスしてきたらどう思う?」

と言ったら、え、そんなんありえないですキモイ、ってかえってきた。

そーだよね、それを仕組みとして作ったのは大人のゲンドウとミサトなわけよ、シンちゃんはずっときもいけどあれはあの子の生じゃないわけ、仕組みとして公私混同があるんだよ。

ゲンドウが命令して評価する。評価するのは数字だけ。

だから、チルドレンたちは、適応しようとしてえ、レイはいちゃつくし、シンジはお父さんお父さんいうし、アスカは優秀であろうとする。

どういう適応の仕方として現れるのか、が個性になるんだよね。

でも、基本は、ゲンドウが悪いって構造があるんだよね。そこで、子供たちがどういう風に動こうと変わらないんだよね。大人が悪いという構造があるんだよ。構造を作って評価軸を作った大人がいるんだから。

という話をしました。

キモイ、気持ち悪いって言葉は何かと批判される。

それは、感覚的な言葉だからだ。

でも、その感覚にはとても大事なことが含まれている場合がある。

言葉で説明しろ、説明しろと追い立てられる側と追い立てる側の非対称を突き崩す可能性のある言葉だと思う。

追い立てる側が、キモイと言われてダメージを受けるのは、それまで、優位だった関係が壊れるからだ。

一方的に説明しろ、と言えていたのが、言えなくなるから、反逆として感じられるのだろう。そして、その感じ方は正しい。私たちは正しく攻撃している。


ナショナリズムとグローバリズムが結びつく理由

ナショナリズムとグローバリズムが結びつくのはおかしなことだと思うかもしれない。

グローバリズムは、個人と世界を直接退治させるものだ。

わたしたちは、まず、個人であって、そのうえで地域社会や家族というコミュニティの一員として、役割を持ち、アイデンティティを確立する。

でも、その中間の社会がなくなってしまうと、もう、アイデンティティを保証するものが、記号的な「日本」しか残らない。

たいていの人間は、世界の六十億人のうち、何位くらいの能力の持ち主だ、と突きつけられることを好まない。そして、耐えられない。

だから、自分にカバーをかける。

日本=(イコール)自分にする。そうすると、自分が傷つかなくなる。どういうことかというと、まず、自分の失敗や、「できなさ」は、日本という大きな記号によって見えにくくなる。

そして、「日本スゲー=自分スゲー」が成り立つと、自分が何もしなくても、自分がすごいように思える。

例えば、日本の結弦スゲー=日本の自分スゲーにもできる。努力したのも、結果を出しているのも結弦だが、そこの過程なしに、自分の鼻の穴を膨らませることができる。

逆に、このことも成り立つ。

「日本を批判=自分を批判」

日本が批判されると、自分が批判されたように感じる人はとても多い。それは、不断「日本スゲー=自分スゲー」にしている代償のようなものだ。

わたしは、自分が生きているうちに「反日」という言葉が、死語じゃなくなるなんて思いもしなかった。

そして、これは、

「日本の誰かが失敗したとき=日本の失敗=自分の失敗」にもつながるから、「あいつは、日本人じゃない」となる。

「普通」を「健康な男性」に設定すると、それ以外の人間は「普通」じゃなくなる。

でも、あいつは「普通じゃない」「日本人じゃない」ということをやっていると、なんだか、「自分がすごい」と思えるんだろう。

でも、これには、やっぱり代償があって、「普通」を「いいこと」と思うと、ちょっとでも瑕疵がある人を「あいつは普通じゃない」としていくので、「普通の世界」にいる人が少なくなってしまう。普通の世界にしがみつくのに必死になる。

普通基準は普通じゃない人を普通になれという圧力としても働くし、普通世界にいる人を追い立てもする。

人を数字以外で見ると、「痛み」というものが大切になる。

何がその人に盗っていたいのか、どこからが痛いのか、というのは、人の輪郭をくっきりさせる。

ナショナリストはだいたい人の痛みに疎い。

それは、自分が「日本スゲー」の陰に隠れていて、日本を批判された=自分が痛いになっていて、痛みがあやふやになっているからだと思う。

自分の痛みを認識して、初めて、自分と他人の区別がついて、そのあと、「他人も痛い」ということがわかる。

ナショナリストはその段階に至っていない。