セックスワークと人権問題 #サービスするわよ

セックスワークの問題のひとつに、人権侵害がある。

それはいくつかの場面で起きる。

職業選択の自由を侵害されること。
仕事自体を、善悪で裁かれること。善悪で考えられることが人権侵害だ。
よく考えれば、人を傷つけるような、全く問題がない。
善悪で、仕事を裁いてはいけない。
また、契約関係が、曖昧なことも、労働環境を悪くさせている。
客側も店側も、契約という概念に疎く、労働者のみの安全を守ることにたいして、万全な態勢とは言えないようだ。

差別は、人権侵害の総称として考えると、差別されているセックスワーカーは、深刻な人権侵害下に置かれている。
それは不当なことだ。
セックスワークが良いとか悪いとか、裁くことは誰にもできない。
たとえば、コンビニの仕事が良いとか悪いとか、わざわざ裁く人がいないように、塾講師が良いとか悪いとかわざわざ裁く人がいないように。

塾講師の良いところは、勤務中に、感染症にかかる可能性が少ないことだ。
だが、それは当たり前のことだ。
セックスワーカーは、感染症にかかるリスクが高いようで、そのうえ、それを避ける行為も、「サービスが悪い」と取られてしまうようだ。しかし、労働者の健康を守る、というのは、最低限のことで、その最低限をするだけで、サービスが悪い、と言われるのは、労働環境が悪く、人権侵害が怒っていると言わざるを得ない。

人権侵害を行うのが、客だと言うのも困ったことだ。本番を契約違反だ。法律違反でもある。(法律が必ずしもいつでも保護的だとは限らないし、正しい、有益とも限らないが)
しかし、セックスワークの場では、それを止めるものが誰もいない。

また、セックスワークをしていない人も、セックスワーカーを迫害することも困ったことだ。
「誰にも迷惑をかけていない」という言葉を昔テレビで否定的に言っている人を見たことがある。「誰にも迷惑をかけていないからと言って、やって良いことと悪いことがある」と。

やって良いことと、悪いことがあるからと言って、外部の人がそれを当事者に言うこととにはかなりの隔たりがある。もし、本当に、信念があったとしても、それを伝えるのには、かなりの準備が必要なはずだ。その準備を怠って、やって良いことと悪いことがある、とむき出しに言うのは、やはり、普通ではないことだ。

セックスワーカー労働環境も良くないようだし、重大な人権侵害にさらされやすく、しかも、それを防御するすべを持たない場合が多いようだ。

これは、フェミニズム関係なく、権利の問題として考えていかないといけない。

セックスワークは、違法ではない。からだと頭と心を使って働くやり方のひとつだ。
なのに、どうして、こんなに責められるのか、恥ずかしいことだと思われるのか。
恥ずかしいことなのならば、なぜ、客としていく人が後を絶たず、業界自体が消滅することが内のか。もし、やって良いことと悪いことがあると、消費者が思っていたら、業種自体がなくなるはずだ。

鶏を飼って、生業にしている人に対して、「インフルエンザというリスクがあるのに、それがわかっているのに、それをやるなんて愚かだ」と言う人がいたとしたら、その発言者が愚かになる。
でも、セックスワーカーに同じことを言う人はたくさんおり、その発言者は自分の愚かさを顧みない。

フェアじゃないこと、不均衡がここで起きている。

わたしはフェアじゃないことが嫌いだ。

セックスは、女のシャドウワークのひとつである。しかしながら、セックスワーク自体は、金銭が発生する仕事だ。
男からすると、本来なら、ただでできるはずのことを、お金を払ってしなくてはいけない、ということに屈辱を感じるかもしれない。男は、シャドウワークによって得られる利益を当たり前だと思っているから、その当たり前が崩されたときに、怒りを感じる様子だ。

女は再生産を担当している。再生産には、金銭を生み出すことができない。そして、世の中では金銭を生み出すことが評価されている。だから、女は一段下に見られる。

セックスワーカーは、再生産の途中までを担当している。金銭を得ている。だから、人は、セックスワーカーを見たときに、どうしたら良いのか、反応できなくなる。そして、「汚い仕事」と位置づける。

わたしは以前、セックスワークの客を汚いものだと思っていた。ミサンドリーがあるからだ。そして偏見もあった。
だが、今思うと間違いだった。
塾に来る生徒にはいろいろな子がいる。マナーのいい子も悪い子もいる。必要だから来ている。汚いも悪いもない。
それと同じことのはずなのだ。

だが、状況をややこしくするのは、セックスワーカーの客は、塾の生徒と異なる行動をとる。
それは、人権侵害を行う場合が多いと言うことだ。塾の生徒はわたしに対して、人権侵害を行うことはまずない。
しかし、セックスワーカーの客は、セックスワーカーに人権侵害を行い、暴力を振るい、盗撮をする場合があるという。そのところが違う。
より、危険な仕事だ。

ここまでのことを書いていて、セックスワーカーは、悪いことはひとつもしていないとわかる。
(違法行為をする店もあることは知っているが。法律が正しいかどうかわたしには判断できない)
そして、悪いことをしていようとしていまいと、人権は守られるべきだ。
しかし、そうじゃない。
そうすると、非セックスワーカーにできることは、「セックスワークが良いことか悪いことか」悩むことじゃなく、セックスワーカーが安心して、安全に働けるように、人権侵害が発生しない労働環境を整えるために動くことではないだろうか。

セックスワークを単なる労働だと考えると、その特徴になるのは突出して、「心身の危険」が高いことだ。そして、労働環境が悪いことだ。だから、そこを改善していかないといけない。
本当はシンプルな話なのに、セックスワークになると、人は冷静でいられなくなる。
「セックス」に対して、いろいろな思いがありすぎるからだ。
「セックス」を正しく理解できないのは、教育のなさ、考える機会のなさのせいだろう。

もちろん、このことを研究している人はたくさんいるだろう。
だが、市井の人間も考えていかなくてはならない。

良く言われることだが、弱者から、じわじわと人権と言うものは剥奪される。
人権を本当に常に守っていくためには、不断の努力が必要とされる。
自分自身の人権を守りたかったら、人権侵害の最前線である、セックスワーカーの人権を守ることを意識することが、大切だ。

セックスに対する教育の充実も大切だ。
それはセックスワーカーを守ることにつながるだけでなく、非セックスワーカーの身を守ることにもつながる。セックスワーカーの良い客は、性知識を正確に持っているひとだとすると、個人的なパートナーとしても、優れた人になるだろう。
「セックス」を正しく、フラットに理解できていること、それが大切だ。
(セックスがいやらしいものだから良い、隠れたものだから良い、と言う人はいるだろうが、それは性癖なので特殊事例だ。なのに、セックスに関してだと特殊事例であるべきなのに、王道みたいに語られるのはおかしなことだ)

セックスは生殖活動でもあり、濃密なコミュニケーションでもある。そのため、安全に執り行わなくてはいけない。もちろん、双方の合意が前提だ。
だが、その「双方の合意」を得るときに、「若干の脅し」を交渉の技術だと勘違いしている男性に、わたし自身出くわす。セックスワーカーはもっと頻繁にそうだろう。それが、得になることだと思っている人や、自分に対して相手が好意を持っているから、意思をねじ曲げてくれたのだ、と歪んだ解釈をする人までいる。

合意とは何か。
そうした、本当に、最低限の前提から始める必要がある。
セックスワーカーが安全に働けるように考えるとき、社会の変化が必要だ。
社会の変化は一人一人の意識の変化から始まる。
その、一人として、わたしは考え始めたい。

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