冷笑は人の心を壊してしまう。
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面白いことがたくさんあった。労働環境、どうして就労したか、性病、法律など。
でも、一番興味深かったのは「労働として楽しい」「性病になって医者に行くと冷笑される」と発言だった。
アトピーも、「掻くからひどくなるんだ」と医者に言われて理不尽な思いをしたものだ。アトピーだからかゆくて掻くんだよ!
その仕事をしているから病気になるんだよ、というのは、理屈が通っているようで、通っていない。
職業病はどんな職業でもある。
だけど、たしかに、セックスワーカーをしている人に対しては、わたしも、正直に言うと「なぜ」と反射的に思ってしまう(からといって、表に出すのは別だと思うが)。
そして、事務員をしていて目が痛くなったり肩が凝ったりするのはその通りだから、それを非難されず、セックスワーカーだけは、罪深いように言われて、だから、そのせいで、罪深いことをしていることが原因で病気になるのだという言いようは、病気の人に対して本当にひどいと思った。
エリコ新聞
話は変わるけれど、宮沢楽さんが描いた自伝まんがが、話題になってた。「宮崎駿に人生を壊された女」と題名をつけたことで、宮崎駿をけなされたと誤解され、だいぶ非難されているようだ。しかし、あれは、どれだけ、彼女が宮崎駿作品を愛してきたか、を描いてある作品だ。
だから、本当はあれは、ラブレターだ。宮崎駿が、彼自身の人生をかけて、作品を作って来たことに対する、受け側の答えだ。
あの題名は、宮崎駿にひどい目に遭わされた、という意味じゃなくて、宮崎駿作品を愛しすぎて、だからこそ、だんだん彼の作品が初期と変わっていくことに幻滅していくことや、作品に沿って人生が変わっていくことを描いた作品だ。そして、彼女の人生がどれだけ救われたかも。
いつも思うことだが、女が何かを表現すると、それが、誰かを傷つけたことでもないのに、「みんなが好きなものを嫌いと言った」ということ自体を叩く、ということが良く発生する。
「みんなが思っていることと違うことを言った。した。あると教えた」というと、その人を憎む、ということが発生する。
男が、本当に誰かを傷つける意図で、作品を発表しても、「芸術だから」の一言で非難が病む場面はいくらでもあると言うのに。
宮沢楽さんが叩かれたことと、セックスワーカーの仕事が眉をひそめられることは、わたしの中では同じ現象だ。
セックスワーカーが「仕事は楽しい」というと、「セックスが好きだ」という意味に思われる。
わたしも塾で教えていると「勉強が好き」だとか、「子どもが好き」だと思われる。
それもどちらも間違いじゃないけれど、間違っている。労働が楽しいのだ。
働いて、結果が出て、お金がもらえるゲームが楽しい。わたしは。
それと同じように、セックスワーカーが「仕事が楽しい」と語ったのだ。
だから、わたしは嬉しかった。
共感は、大切なものではないが、それでも、やはり嬉しかった。
(共感ベースで考えすぎると、共感できない問題について、考えなくてもいいという話になってしまうから)
楽しさの種類には、人間の数以上にバリエーションがある。ひとりの人間が感じられる楽しさにはたくさんの種類がある。その上、人間はたくさんいる。かけ算するととてもたくさんの楽しさがあることになる。
人間はひとりひとりカラフルだ。
カラフルな人間が、職業のひとつとして、たとえば、好奇心から、貧困から、お金が欲しいから、暇つぶしで、いろいろな理由でセックスワークを選ぶ。または、選ばない。
職業には危険がつきものだけれど、世の中から隠された職業にはもっと危険が隣り合わせだ。
法律の目が届かないから。そして、それを利用する人たちが、何をしても良いのだと、よけい勘違いしやすいから。
ただでさえ、男の人は、女の人に、何をしても良いと考えている。
ただでさえ、消費者は、お金を払いさえすれば、労働者に何を要求しても良いと思っている。
世の中から隠された労働は、それが加速するだろうことが、想像に難くない。
宮沢楽さんは、ずっと、精神病患者として、発信をして来た。そして、女として生きることの苦しみを発信し、医療関係者に人生を損なわれ続けた苦しみや、そして、ただ好きだった趣味を踏みにじられた苦しみを語った。弱者として扱われて、本来の力を奪われ、弱者になってしまった苦しみをずっと語って来た。彼女は、本当に正確に物事を見ることができるから。
精神疾患も、セックスワークも、みんな目を伏せたいことらしい。そして、それについて、言葉を発すると、みんなでよってたかって言葉自体を踏みつぶそうとする。その言葉のあらを探して、だからダメなのだと言う。言葉だけではなく、あなた自体もダメだという。人格まで否定する。選ばざるを得なかった選択肢の選び方を否定する。
そして、その否定が、「あなたのため」なのだから「受け取らないといけない」「そうしないと、あなたは不幸になる」と言う。
人の言うことを素直に聞かないから、あなたは苦しむのだ、とまで言われる。
弱っているときは、その悪意の魔法にかかってしまう。
わたしも良く言われる。悪意に染まらないように、ぐっと踏みとどまるように、耐えるだけでも相当しんどい。
男性は、女がなにかを表現するとき薄ら笑いを浮かべる。気に入らないときにも薄ら笑いを浮かべる。加害を加える前にも薄ら笑いを浮かべる。
それは言語じゃないから、わたしたちは、その薄ら笑いを指摘しにくい。そんなことはしていない、被害妄想だ、という。
しかし、それは現実に作用して、わたしたちの活動を制限する。薄ら笑いには、力がある。
冷笑は、言葉にならない攻撃だ。あの、薄ら笑いには、恐れを感じる。黙らされて来た。なぜかわからないが、恐ろしい。肉体的な恐怖だけじゃなく、もっと何か、怖いものがある。
だけど、最近はあの薄ら笑いは、愚かさを表現しているのだと思うようになって来た。
接客は楽しい。人に触れることも楽しい。お金を稼ぐことも楽しい。評価されるのも楽しい。お礼を言われるのも楽しい。なにか、教えることも楽しい。歩合制で稼ぐことが楽しい。評判が良くなることが楽しい。ちやほやされることが楽しい。自分のすべてが武器になることが楽しい。
これは、わたしの仕事と、セックスワークの共通点をあげたものだ。
これだけあげると、むしろ、わたしがセックスワークをしていないことの方が不思議に思われるくらいだ。
女の人は、なんとなく、セックスワーカーに対して罪悪感を持っている。自分がセックスワークをしていないから。でも、同じように「性」を売っていることを意識しているから。
お金を持っている男に、営業をかけるとき、男と同じような戦略は採れない。
事務員をしているとき、男と同じ程度の気遣いでは、いじめられる。
接客をするときには、女の美しさや柔らかさを求められる。
結婚するときには「女らしさ」をアピールする。そして、社会が用意した、女の賃金の少なさを補うために、女らしさを差し出して、なんとか食いつなごうとする。
女の形をして生まれて、女として判断されたら、誰でも、いくらかは、女を差し出さないと生きていけない状況がある。
女を拒否する、という形でも、女であることをわざわざ意識せざるを得ない。
だから、女はセックスワーカーに対して罪悪感を抱くのだ、とわたしは考えている。少なくともわたしはそうだ。
男たちは、ただ、女を見下している。生まれたときから、女を見下しても良いというサインを社会から受け取っているから、ただそれを吸収して、無邪気に放出し、再生産をしているのだ。
そして、中でも、セックスに関しては、より、見下しても良いと思っている人が多いようだ。
そういうわけで、女も男も、セックスについて考えるときに「利害」について連想してしまうし、その「利害」を直接的に「お金」に変えてしまう人たちのことを、「わけがわからない」存在だと思い、そして、どうして良いかわからないからか、はっきり見下してもかまわないと思うのか「冷笑」する。
だいたいの人は、人生を毎日選びながら生きている。だけど、どうなるのか、わからず生きているという意味で、「選べていない」。どうなるか、あらかじめ分かっていないという意味で、自分の人生を主体的に選べている人がどれだけいるのか。
なのに、その自分を棚に上げて、弱そうな人間を見つけたら、攻撃して、そのことによって、自分を正当化して、ほっとしたい、癒されたい、と考える人々はいる。
その標的として、選ばれやすい属性が存在する。
ただ、人は、ひとつの属性だけでできているわけじゃなくて、複数の属性が重なり合ってできている。
冷笑する人は、ただひとつの属性だけを見て冷笑する。
わたしは存在する。発達障害者として存在する。たとえば、このユーストリームを最後まで見るのが困難だった。頭が停止してしまった感じがして。
また、わたしは、文章をたくさん書けるという属性も持っている。
たくさん勉強して来て言葉を知っているという属性も持っている。
わたしをけなす人は、ひとつの属性だけを見ている。
この人は存在してはいけない、この職業は存在してはいけない、と人が言うときには、そのひとつの側面や属性だけを見て判断しているのだろう。
そこには楽しさや、新規性や、奇跡のような瞬間があって、わかり合ったりわかり合えなかったり、つらかったり、楽しかったり、役に立ったと思えたり、評価されたと感じることができたりする瞬間が、本当はある。それは邪悪さとはほど遠い。
ほど遠いのに、ひとつの属性があるばかりに、冷笑の対象となる職業があるのは悲しいことだ。
それは、わたしが教えてもらった通りに言うと「もうすでにある」のに。
すでにあるものを消すことは時間がかからないとできない。すぐに消そうとすると、多くの人が苦しみ、下手をすると死んでしまう。職を失うということだから。
それは、わたしたちがあると信じている架空の属性、セックスワークが悪いものだと信じている、共同幻想からの結果としては大きすぎる悲劇だ。
それは避けなければいけない。わたしたちは、知らなくてはいけない。
セックスワークが、接客だということを。そして、接客には、客と労働者の中で教え合う美しい瞬間があると言うことを、知らなくてはいけない。美しい瞬間がなかったとしても、それが、存在してはいけない、という理由にはならないことをわからないといけない。
わたしたちには、労働者が等しく、健康で過ごせる社会を作る義務がある。
セックスワーカーも労働者だ。だから、セックスワーカーも、健康で過ごせるようにしなくてはいけない。
わたしも労働者のひとりで、健康で過ごせているわけじゃない。
だから、セックスワーカーの困難の一部を、理解できるかもしれないと思っている。
仕事を楽しめても、楽しめなくても良い。楽しめたらもっと良いだけの話だから。
だけど、わたしは、これからも、ずっと、薄ら笑いを浮かべて、わたしに何か言う相手に出くわしたら、わたしは楽しいのだ、とそれがたとえ虚勢でも、言い放って、その薄ら笑いを消し去りたい。
そういう意味で、セックスワークを考えることは、女であるわたしの労働を考えることの役に立つ。わたしはわたしの利益ゆえ、そして、政治信条ゆえに、これからもセックスワークについて考えていきたい。
わたしはセックスワークの内部に入ることはしないと決めているけれども、いつでも肯定したい。
わたしはセックスワークを肯定する。
わたしひとりが肯定しても、何もならないとしても、肯定する。
わたしはセックスワークを肯定する。この言葉が、誰かひとりにでも届いて、そして、少しでも楽に楽しく生きられることを祈る。
楽しさだけが、抑圧してくる人々に対して、武器になる。彼らは、幸せを奪うことが生き甲斐だ。ただしさなんて、流動的だということに目をつぶって、いつでも人を裁きたがる。
わたしは、楽しんで生きる。
ユーストリームで、「楽しい」と言って、お互いの拳をぶつけた図を見て、わたしは力をもらった。
わたしは楽しむ。
楽しんで、薄ら笑いを蹴り飛ばす。