女の言葉、男の体、それぞれが殺され、殺すもの

女の言葉は不自由である。
「乱暴な言葉を使うな」「命令形を使うな」という抑圧がある。
女の体は厳しく監視され、「ふわふわ」「きれい」「つるつる」「細い」「若い」「いいにおい」であれ、という抑圧がある。
そのため、女は内向きになり、自分自身を抑え、その分メンテナンスする。
自分の体と言葉と向き合う機会がある。

 

その一方、男の体は、男自身で、気づかれる機会がない。
自分の体をメンテナンスすることができていない男は多い。
「男らしい」ふるまいの延長線上に、体をメンテナンスする、ということが入っていないからだ。それは、女の仕事とされる。
女とつがえない男は、自分のメンテナンスをしない。

 

うちにいるおっさんである六帖は「自分で必要に気がついて水を飲む」ことができない。
わたしが言わないと、水を飲むことを忘れる。
体臭を気にするような精神性があるのに、「人間は水でできている」という知識を生かせない。
知識があっても知恵がない。事柄と事柄が結びつかない。
自分をメンテナンスできない。

わたしは六帖のことをときどき「ちんちん」と呼ぶ。「ちんちん、ご飯作って」のように言う。
その一方、わたしを「まんこ」と呼ばせない。
社会に「ちんこ/まんこ」の非対称性があるためだ。
ちんこは、社会的なもの。まんこは、社会に出したらまずいもの。ちんこは欲望するもの。欲望されないもの。まんこは欲望しないもの。欲望の対象となるもの。

男が、女をまんこと呼ぶことと、女が男をちんこと呼ぶことで生まれる差異。
その差異は、個人的な間柄でも、致命的な暴力になる。

 

だから、わたしは、「ちんこ」と呼ぶけれど、わたしを「まんこ」と呼ぶことは差別になると思っている。
女が汚い言葉を使ってはいけないという規範があるから、「ちんこ」と相手を汚い言葉で呼ぶ。そうすることで、ようやく家の中の公平性が保てると思っている。

わたしがブログやツイッターで書く言葉を、「汚い言葉を使うからよくない」という人がいるけれど、女が強いられてきた言葉の歴史を考えるとそうは言えないだろう。
男の言葉は、社会的なもの。学問的なもの。命令する言葉であり、会社や仕事で使われるもの。
そのために、男同士の純粋性を保つ。連帯を高める。

 

女言葉は、「二流の国民である」ことを常に示すもの。
学問の世界で女言葉はつかえない。学問の世界のセクシャリズムに、女言葉は殺される。女言葉によって、女の言葉は殺される。

 

女言葉に命令形はない。女はいつも頼むもの。下から見上げる言葉。

男言葉に男の体は殺される。メンテナンスせず、男らしくない振る舞いを規制する。

 

男言葉を使わずに、女は語ることを許されるかどうか。大学のレポートで、論文で、女言葉で語れない。
それは、「普通の話し言葉」とされて、価値を見出されない。

 

書き言葉は男言葉。
女は男のふりをして、学問の世界になんとか入れてもらう。しかし、学問上で、どうしても必要な時以外では、女言葉を使って話すことを禁じられているし、女が男の言葉で語ると、ひっぱたかれる。

「女らしくない」「女として終わっている」「不幸せそう」「本当の勝ち組にはなれない」と言われる。

女の歴史は、明治期に発明された女言葉によって奪われ、殺された。
女は公の場で語ることができない。自分自身の言葉を使っては。

借り物の言葉を使って、ようやく、語ることが認められる。男たちによって。名誉男性によって。

女は女の言葉に魂を殺され、男は男の言葉に縛られ、体を維持できず死ぬ。

 

参考:言語イデオ ロギー としての 「女 ことば」

c71の著書

スポンサーリンク
広告

女の言葉、男の体、それぞれが殺され、殺すもの」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください