人間には穴がある


人間には穴がある。口から肛門につながっている。細胞が組み合わさって、管のような組織をたくさん作っている。人間には穴がある。

性暴力は、社会的構造的問題だ。

それは、性暴力の対象として最も選ばれやすい「女」が、社会的、構造的に、その属性を固定されているからだ。

そして、その属性は、自意識では変えることができない。

身体の特徴に基づくものだからだ。

そして、ジェンダーで、性別を決めるという人たちは、この歴史や現実を無視している。これは、被差別属性の女性の言葉を奪うので、女性蔑視的である。ジェンダーで決まるなら「女はやめたいときにやめられるはず。やめないなら、好きで女をやっているんでしょ」ということになるからだ。でも、実際には、身体的な特徴で、女は女として定められているので、自ら女をやめることは不可能だ。

トランスジェンダーの人口比は、たしか3%程度だが、mtfはさらに半分だとしたら、人口の1.5%くらいだろうか。

そして、女性が人口の半分だとして、その中で、性暴力に一切あったことがないひとはどれだけいるだろう?その人間の人口の半分に当たる人々の恐怖が、無視されていいのだろうか?

これだけ大きな人数の塊が、男性からの性暴力の対象に選ばれやすいとはっきりされているのだから、社会的に対応しなくてはいけない。

トランスジェンダーは人数が少ないからどうでもいいということではない。

わかってほしいのだが、女性は、常にどこか性加害におびえながら暮らしている。

今回の記事では、トランスセクシャルはトランスジェンダーに含めていない。最近、くたばれGID関係でそういう話題が出ていたことと、別に扱ってほしいというトランスセクシャルの声を目にしたので。

トランスセクシャルの女性と、わたしは、身体や、身体にまつわる記憶や経験に、大きく違う点がある。しかし、あえて断っておくけれど、 わたしは彼女たちとともに生きていくことができると願っている。それぞれの違いを消すことなく。

クロスドレッサーも、異性装が好きで、楽しんでいられるなら、それが一番いいと思う。

性暴力について、「個々に対応すればいい」という発言の何が問題か、というと、女性の恐怖が構造的なものであり、性暴力が、社会的な問題であることを気が付かないふりをして、あたかも、個人の差別心が原因で、トランスジェンダーの人が虐げられていると誘導している人がいるからだ。

「純粋な男にも、トランスジェンダーにも、クロスドレッサーにも、それぞれ犯罪者も犯罪者ではない人もそれぞれいるのだから、犯罪者にだけ対応すればいいのに、それをしないのは、差別だ」という人がいる。

けれど、そうじゃない。先にも述べたが、性暴力というのは、社会的構造的な問題なのだ。女という属性が、構造的に固定されているからだ。

だから、個人が、犯罪者に遭ったらそのとき対応したらいいというのは、机上の空論だ。犯罪者は、あらかじめ準備してから獲物にとびかかる。とびかかられたほうは、心の準備すらしていないので、最初に勝負は決まっている。

なので、高井さんのいうように、「逸脱的な行為者」という表現がとても気になる。彼らは、「普通の男性」なのだ。性加害を性加害として認識せず、ゲームのように暴力を振るう男たちは、女性の合意がなくても合意があると思っているし、自分が異常だとも思っていない。周囲も彼らを正常だとみなしている。

加害を目的として外性器を露出する人は、たいてい男性だが、その相手が女性とは限らない。男性用のトイレで、痴漢に遭った男性の話も聞いたことがある。だから、わたしは「穴がある」と指摘した。自分の身に降りかかることとして、恐怖を共有してほしくて。

わたし(コニー)のツイートの意味は、「トイレで外性器をみることはないので、性暴力の恐怖を語るのは差別である」という主張に対して、「そんなことはない、加害は常に起きてきたから、トイレで外性器を観るのはレアケースではなく、それゆえに、心配するなと言われてもまったく根拠を感じない」という意味である。他人事としてしか、性暴力の恐怖を「神のように俯瞰して(ほかの人の言い方を借ります)評論すること」にどんな肯定的な意味があるだろう。

性加害をする人間の性的指向は関係がない。また、男性を襲う男性の数はゲイよりも、ヘテロであることのほうがはっきりと多いというのも常識だと思う。

だから「あなた(人間)にも穴がある」という事実と、わたし自身が「穴があるとみなされたから、穴に突っ込まれた」という経験を結び付けて、「あなたも穴があるとみなされれば、突っ込まれるのだ」と言ったことは、ホモフォビアではない。

というか、穴があり、それに何かを突っ込まれるということから、ホモフォビアを連想されたので、むしろこちらは面食らってしまった。穴に何かを突っ込もうとするのは、普通の男だ。

女性差別は「この人間には穴がある」とみなされて、同時に、見下され、道具にされることだ。穴があり、何かを突っ込めば面白い、うまくいけば、人間が増えて、将来の自分の役に立つから突っ込んでおこう、というもの。それが「女をモノにする」という言葉の意味。慣用句になるほど普遍的な発想だ。

やばいことをすればするほど、男同士で認められ、男である自分の穴に気が付かれることはない、というのがホモソーシャルの仕組みだ。自分の弱みがあることをみせれば、いつ寝首を書かれるかわからないので、女を生贄にすることで、自分の「男」を証明し、連帯を強める。

女同士に連帯がないのは(もしくは連帯が難しいのは)、生贄にするべき何かが存在しないからだ。わたしたちの共通項は、「生贄にされる」ことでしか存在しない。わたしたちは、女である、その一点でしか、共通した部分がない。本当は一人一人、まったく違う。けれど、その差異は差別の前で消える。

そして、同じ種類の体を持つという宿命から、同じ文化を共有しているので、苦痛について、話し合うことができる。

男が、わたしたちの苦痛について話し合うことも、ましてや、聞くことすらできないのは、同じ抑圧を受けていないからだ。それは体が違うから免れている文化だ。

わたしたちのそれぞれの違いは、女という、「妊娠可能な体」に覆われて、均一的な、同一的な、男の作った「女」というジェンダーロールに集約される。まとめられて、消滅させられる。

トランスジェンダリズムは、それぞれの違いを消滅させる。そして、男の作った共同幻想であるジェンダーこそ、本当の女のイメージであると述べる。「ジェンダーが男女を分ける」というのは、共同幻想こそが、本質だという意味だから。

じゃあ、その共通幻想を作ったのは誰か。生贄としてささげられたわたしたちだろうか?わたしの体だろうか?

そうじゃない。生贄としてわたしたちを利用して、自分の男を証明する人たち、それらが作った都合のいいイメージ、それがジェンダーだ。

つまり、ジェンダーによって、女が誰なのか決まるということは、それぞれの身体的、心理的に持つ固有の違いよりも、イメージに覆われた、人形のような何か、それのほうが本物の女だということ。

生まれる前、自我が芽生える前、女は女だからという理由で殺されるので、全世界的に、女性の数は少ない。本来ならもっと生まれているはずだった数よりも少ない。女が差別されるのは、「女という意識」が故じゃなくて、外から見える特徴だという証拠だ。

わたしが「あなたには穴があり、穴があれば突っ込まれる」と言ったとき、とっさに「ホモフォビック」だと返したのは、怖かったからではないのか。自分が男でなくなること。それ自体の恐怖。

もし、女性が、差別されず性暴力を受けなければ、それぞれの能力を伸ばし、夢をかなえることができただろう。

知的な職業に就いている男性は、自分のキャリアやポストが、努力の結果だと思っているかもしれないが、それは下駄を履かされているからだ。

今でさえ、大学が少ない地域の話で言えば、数人の子供がいる場合、東京の大学に通わせられるのがたった一人なら、男子が選ばれる。一方で、もう一つの性は、子供のころから「女の子は理系は苦手だからね」「食べていける職業に就かないとね」と夢を追うことを遮られて、自分らしく暮らすなんてことが程遠い中で、幸せを見つけようともがいている。

男性にも穴があるのだ、穴があれば突っ込まれるのだといわれるだけでも、うろたえてしまうような人が、現実のわたしの話だといっても受け入れることができないのはよくわかったけれど、わたしは苦しんでいる。そして、苦しんでいる人はほかにもいる。語ることで生きながらえて、寄り添うことで人を信じようとしている。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください