私の体の持つ意味も語ってきた言葉も盗ませはしない

フェミニズムの解釈違いにつかれてしまって、もう、フェミニストを名乗るのもやめようかと思っている。

男女差別に反対なのは変わらないんだけど。

でも、めんどくさいこともある事実婚を実践していて、それでも、本当のフェミニストじゃないとかいろいろ言われるのが、うんざりしてしまった。

本当のフェミニストなんていないと思うんだけど。だって、今の社会に生きている限り価値観からはどうしたって自由になれっこないんだから。時代の子だから。未来にしかフェミニストはいないことになる。それならウーマンリブなのろうと思ったけど、そっちも、わたしが賛同しがたい人々によって、わたしの思っていた意味とは違う活動が行われていたから名乗るのをやめた。何かの属性を名乗ることがそもそも危ういから、この思想に乗ってます、みたいなことも、もう限界なのかもしれない。

わたしが本当のフェミニストじゃないといわれたのは、二つ。

おしゃれをすることと、自分が女だと名乗り、女の体を持つがゆえに押し付けられてきた意味や、盗まれてきた尊厳について語ること。この二つを、差別とののしられた。

どちらも、自分を肯定するためにしてきたこと。わたしのすり減った尊厳も自尊心も、それは、自分の責任だけじゃなくて、社会の責任でもあり、受け入れず戦っていいと示すこと。そのために「女性」という言葉が必要だったし、「女性でいるがゆえに起きたすべてのこと」を語る必要もあった。

だけど、今は「女性」という言葉に「女性」じゃない人を含めないと差別だといわれる。そうしたら、わたしの語る言葉は意味を失う。わたしの経験から紡がれる言葉はまた死ぬ。女性という言葉で表してきた、戦うための概念は違う体を持つ人たちに盗まれて骨抜きにされる。

わたしは、女性だ。それは、この社会がペニスの有無を根拠にして選んだ現実だ。社会が「ペニスの有無」以外で、男女を決めることが可能だという意味では、それは社会的な構築物と言えるだろうけれど、そのほかの要素で、「女性」「男性」を分けている世界に、わたしは住んでいない。だから、わたしはペニスを持たないがゆえに、女性である。

女性は、生殖をするかしないかどうかにかかわらず「生殖可能性」をその体から読み取られる。そして、その可能性を読み取られる時点で、ほかの可能性を摘み取られる。

それは、実際に、生殖を選ぶか、可能かを必要としない。生殖する種類の体かどうかで、選ばれる。そして、わたしは、女性として区分され生きてきたので、女性として味わう様々な屈辱をなめてきた。そして、女性として生きる現実をなぞったうえで、女性として、人間として、いかに生きるかを模索してきた。

自己表現としてのおしゃれが、ネット上の女性の権利的な議論の中で、すっかり人気がなくなってしまっているけど、生きていて楽しいって思うことを排除していく先に、何があるのかわたしにはわからない。セルフケアとしての身だしなみと、社会的に要求されていて、拒否できない身だしなみと、区別できるかというとできないから、全部拒否するみたいになりがちだけど、それでどうなるの???って思う。
わたしは嫌だ。

これを事実婚と結ぶのは、飛びすぎてるかもしれないけど、わたしには同じ問題だ。

から、わたしは自分のアイデンティティを保持するために事実婚をしてきたけど、そういうのも、自分の理想のためにやってきたといえども、なんかもういいかなと思い始めてる。

他人からわかるのは、言動、見た目、そういうことだけだから、言動や見た目で信頼できない人がいたら、そういう人は信頼できないというしかない。

でも、それが差別だと言われて、虐殺の扇動者とののしられて、今もショックから抜けきれないでいる。

わたしが信じて実践してきたものを全部捨てることはできないけど、もうさっぱり手を引くのが賢いのだろうとも思う。

だって、わたしは、男女差別的なことに関心を持たなくても、生きていける素地が整っている。家も仕事もあり、助けてくれる人もいる。生きていける。

性暴力サバイバーとして、発言してきたことで、わたしはすでにある程度回復した。自分のためになり、他人のためになるように願いながら、ブログを書いてきた。だから、ある意味で役割は終わったともいえるし、「トランス女性問題」みたいなことから手を引いて逃げ出してもいい。全然いい。けど、「女性」として生まれて女の体を持つがゆえに加害され盗まれてきた尊厳すべてをかけて語ってきたことを、その言葉自体を、さらに乗っ取る人たちを、許せはしない。女性の体を持つから起きたことそれを語ることすべては、わたしたちのために語られるべきであって、男の体を持つ人々に譲ってはならない。女の体の定義も譲れはしない。それは、死ぬのと同じこと。生まれてきてから常に世界が示してきた身体に伴う意味を、わたしは残さず吸収しているから、今それが奪われたら、わたしは土台を失う。性というアイデンティティの根幹が揺らいでしまったらどんなふうに生きていけるだろう?ただ、宙ぶらりんな存在として、どんな風に歩けるだろう。

わたしの体の持つ意味、そういう意味を語ること、それらを黙れ差別だと罵られて、そしてそのまま黙ってしまえば、わたしの体に押し付けられた意味と戦うための言葉も意思も気持ちも死ぬ。女性という身体ゆえに起きた現実と、戦うために語ってきた言葉を盗まれた。女の体を持つ人たちが、その体のために選んできた言葉を、盗み、自分のために使う人々を許さない。女から奪ったものは、女に返すべきだ。それはわたしたちの言葉である。彼らは彼ら自身の言葉で語るが良い。

c71の著書

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