自然の中のちんぽ

痴漢は”自然化”されて、人間の仕業だということが隠されています。

「仕方がない」と諦めるように促す行為が、痴漢を自然化して、人間の仕業だということを隠す行為なのです。

「あいつらは人間じゃない」という非難の言葉も同じです。人間だから、責任があるはずなのに、人間じゃない、となったら、責任も問えません。社会の成員でもないのなら、痴漢をはじめとする性暴力を社会の問題として考えることができなくなります。あいつらは人間じゃないという言葉は、「自分とは関係がないこと」といって、周囲の、社会としての責任放棄を正当化する言葉なのです。

本来ならば、断固として許さないという姿勢をあらわにする必要があります。

どこか、仕方がないこと、しょうがないこと、と社会全体が考えているから、性暴力者は「仕方がないこと」「よくあること」「たまたま自分だけが罰せられたこと」と考えるのです。

 

だから、自然としてのちんぽということについて考えてみたいと思います。

 

二項対立という考え方が昔ありました。

例えば、男と女をわける。論理的と感情を分ける。人工と自然を分ける。

この順番には意味があって、男は”論理的で人工的”、女は”感情的で自然に近い”。

前者は優れていて後者は劣っている。女には子宮があるから、子宮でモノを考える。女が怒れば子宮のせい(ヒステリー)だと病名までつく。女が精神病になると、「彼女は自分にペニスがないことを気に病んでいるからだ」と高名な医者が言う。これって、わたしの子供のころ大真面目に信じられていました。

今でも信じている人は多いようで、わたしのブログに「感情的」「気持ちだけで主張している」というコメントはよくつきます。感情的に、自分の気持ちを語ることの何が悪いのかさっぱりわからないのですが、彼らは、感情をあらわにすることはとにかく悪いことだと思っているようです。感情について「冷静に」語ることもできますし、激高しながら論理的に感情について説明することもできます。

感情的、という言葉を目にすると「我を忘れて支離滅裂なことを言う人」ということが連想的に思いつく人は、それ自体が「論理的」とは言い難いのですが、そこまで深く考えることをしないのでしょう。

小学生の時「女は自分にペニスがないことを気に病んで子供時代を送る」という文章を読んだ時、まだペニスを見たことがなく、ペニスという言葉も調べなければ知らなかったので、そのばかばかしさに呆れかえったものでした。こんなバカなことを論理的に語るなんて。最初にゴールを決めてから論理を組み立てても、正しい答えに行きつくわけがない。

それ以来、論理性に疑義的な気持ちが生まれました。道筋が正しいことは答えを保証しない。問いの正しさが、すべてなのだと。

よく、痴漢に対して「痴漢をどうにかするしかないのだから対策するしかない」という人がいます。

実際、子を持って驚いたことですが、今どきの子供は、スカートを素足ではいている子はほとんどいません。スカートの下には、必ずスパッツかズボン、タイツを履いています。変態の恐ろしさが周知され、子供の服装が変化したのです。

わたしは思うのです。

どうして、変態をなんとかしようとしないのだろうか、と。

「変態をどうすることもできない」と多くの人は言います。

それって、昔、誘拐を神隠しと言っていたのと何が違うのだろう?

どうにもできないことを、「神」「自然」の力の仕業だと覆い隠すことは、昔の生きる知恵だったとは思いますが、今、必要なことだろうか?

「ちんぽの加害は自然なことだから、どうすることもできない」ということでしょうか。「性欲は本能だから」とよく聞きますね。「性欲がなくなったら人間は亡びる。それでいいのか」と。

滅びればいいと思います。また、性加害の結果、人間が増えたとしても、それを育てるのは誰なんだろうか?人間は、生物の中でも最も保育のための年月がかかる生物なのに、射精して受精したら殖えると考える人は、果たして人間としての資格があるのだろうか。そして、ちんぽに独自の意思があり、コントロールできないという人は、自分の知性を放棄して、悔しくないのだろうかと思います。

本来、自分の欲をコントロールできない人は、社会の中で暮らせません。誰もがルールに則って暮らしているはずです。しかし、あらゆる場面で、男性の性欲に関しては、制御できなくても仕方がないというメタメッセージが発せられています。

わたしが子供のころ、道を歩いているだけで、変態が「いくら?」と声をかけてきました。体をいくらで売るのか?と聞いているわけです。そのころ、援助交際がセンセーショナルに報じられており、大人たちは、子供が自分から体を進んで売ると信じていたのです。「売る人間がいるから買うのだ」と大人たちは子供に責任を取らせようとしていました。わたしは、体を売るために道を歩いていません。でも、「売る人間がいるから、買う人間がいる。それは経済学的に正しいのだ」と大人は言っていました。売っていないのに。買うつもりでいる。報道を信じている。妄想と現実の差が分からなくなっている大人の男がそこかしこにいました。

 

大人に訴えましたが、一顧だにされませんでした。「魅力的だと思われたのでしょう。思われるうちが花だよ」と言われました。彼らも妄想と現実の差がつけられていなかったのです。

スカートを素足ではくと、変態に目を付けられるかもしれないから、下になにか穿いておこう、男性が向かいから歩いてきたら、すれ違いざまに何かされるかもしれないから身構えておこう、そう防衛するためには、

いつも変態のことが脳に張り付いたようになります。

「自衛をしろ」という人がいますが、自衛をするためにはあらゆる瞬間に「変態ならこうするだろうか」ということを考え、変態の行動を調べる必要があります。そうすると、脳に非常な負荷がかかります。性暴力に遭ったことのある人なら、常に加害された経験のことを思い出す状態です。それは、その負担がなければできたかもしれないあらゆる機会を失わせます。

(防衛のためにしていることを「加害者の視点を身に着けた被害者」と揶揄する人までいてめまいがしました)

 

最初に戻りますが、「男は理性的or論理的」なのに、ちんぽについては、それは適応外なのです。人工の代名詞であるはずなのに、男は、股間にぶら下がっているたった一つの臓器だけは、彼の自然を象徴させます。股間のものを息子と呼ぶ人もいます。自分とは違う人格を持っているのだ、という人もいます。

 

彼らは、ちんぽを自分とは別のものとみなし、ちんぽに関する自由を一生懸命求めます。それは、彼らが自分自身の中で自然を感じられる唯一の場所がちんぽだからなのでしょう。ちんぽは、ちんぽ自身の”自然”と、”女性という自然”とつながれるたった一つの臓器だから。

男が論理的で感情的ではない、という理屈と、性加害を行うほとんどの人間が男であるという現実は、本来成り立ちません。性加害の動機は、支配欲と加害欲だからです。しかし、それを両立させるためには、男は、自分とちんぽを切り離さなくてはなりません。そうしなくては、矛盾するからです。

社会は、男性によって牛耳られています。そして、女性は、それを維持するために、常に「劣ったもの」として欲されています。「優れている」はずの男が、「劣っている」はずの女を求めるのは一見矛盾のように思えます。

しかし、それは、現実には劣っているか、優れているかで二分し対立させることができないものを、無理やり対立されているから起きる矛盾です。

放火魔を誰もが憎めます。しかし、性加害者は見えなくさせられます。放火された人に「放火されたなんて知られると恥ずかしいから届けるのはやめたほうがいい」という人はいませんが、性加害された被害者に黙っておいたほうがいいという人はたくさんいます。被害者がいなかったのだから、加害もなかったのだというわけです。

被害を表ざたにする人に対してはこういいます。「隙があったのだ」と。

これはちんぽを”自然化”する行為です。また、ちんぽの持ち主の”人格”や”判断力”を無化する行為です。男が女を襲うのは自然なことだから、あきらめたほうがいい。自衛するしかないと。

被害に遭った女は”だから女は感情的でダメなんだ”(歴史的にも性虐待を訴えた女性の症状はヒステリーと呼ばれ、収容の理由になりました)、”証拠がない”とののしられます。隙を見せて誘ったのだろうと言われます。隙を見せることと誘うことは、まったくつながりがないのですが。

普段、女性は口をふさがれています。そして、「女は自分から言葉にすることができないのだから男が察してあげるのがやさしさ」という風につながって、女の隙はOKのしるし、と性加害視点の男独自の考えにつながっていきます。女を黙らせることと、性加害の正当化は、つながっているのです。だから、性加害視点の男は、女を黙らせるのに必死なのです。

逆に言えば、女を黙らせようとする男は、加害者に利することをしています。それは、加害者と同じ立場です。

 

女は”自然”で”劣っている”。

男は、”人工的”で”理性的”である。

しかし、男のちんぽは、理性では制御できない。性加害は”自然な”ことだ。

ここにはねじれがあります。女性に性加害をする男は、報酬として自らを差し出さない女を恨んでいるので、その恨みを晴らす手段として性加害を行います。

そして、社会は、そのことを”自然”といって許すのです。

c71の著書

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