「お気持ち」「まなざし論」に対する反論

わたしの嫌いな言葉に「お気持ち」「まなざし論」というのがあります。

客体化という概念は、社会学でもフェミニズムでも普通にあるので、なぜそこがひっかかるのか謎です。

女性はエロい目で見られたら気分が悪くなり恐怖を覚えます。

男性にとって、エロい目で見られることは楽しいことなのかもしれませんが、女性にとっては恐ろしいことです。危害が加えられる前の段階だ、と認識する人が多いでしょう。

モノ扱いされたらいやだ、モノ扱いされると、拒否しても拒否が通らない、という経験をしている人が多いからです。

オタクはよく、「キモイっていわれる」「迫害される」というけれど、もしそうなら、「キモイなーと思われているのが目でわかる」はずじゃないかと思います。

もしくは、「あいつからカツアゲしよ」という目で見られてたらわかりますよね?

よく、痴漢くらいで、という人や、やめてくださいと言えばいいという人がいますが、カツアゲされているときに「やめてください」と言える人ばっかりじゃないですよね。勝手に触ってくる段階で、通常の判断力を持つ人ではなく、考え方がおかしい人間なので、拒否が伝わるとは思えないだけでなく、もっとひどいことをされると思って怖いから言えません。

もし、強盗に遭ったとき、毅然と「やめてください。お金は出しません」と言ったら、殺されるかもしれないから怖いと思いますよね。それと同じです。

 

見ただけでダメなの?というけれど、ええ、ダメなんです。ちらっと見るのと、じろじろ見るのと、やっぱり違いがあります。そして、じろじろ見られたあと、ひどい目に遭ったことがあれば、経験上、それは嫌で恐ろしい行為になります。

女性がキレて怒ると、「ヒステリー」と言われるけれど、男性にはそれにあたる言葉がありません。男性は怒っている状態に名前を付けるまでもないわけです。

わたしは治安のいい場所に住んでいるけれど、日中に男性から怒鳴られたりけられたり、つけられたり、というのはあります。そういうことをするのは男性でした。例外なく。

「人格のある人間だと尊重される」の意味は「嫌だ、やめろ」と言ったときにその意思が通るということです。

「モノとして見られる」というのは、見ている側がその妄想通りに動かそうとしているときのことです。女性は、男性に迫られて(きれいな言葉であえて言いますが、実際には怖い)、丁重に断っても、逆切れされて怖い思いをした人はかなり多いです。つまり、断るってことを受け入れられていないのが怖い。

子供たちは、小学生のころから、盗撮、痴漢の被害に遭っています。それも、人格を尊重されていないってこと。

 

 

男性は「視姦」ってことば使いますよね。実行にも移しますよね。男同士で、ネットでも、現実でも語り合いますよね。あんな気持ち悪い言葉を選択するんだから、本当は見るだけでもダメだってことわかってるんじゃないかなあ。でも、ホモソーシャルにおいては「悪ければ悪いほど男らしい」という規範があるからそれに乗っているんじゃないかと思います。

 

「まなざし論」「お気持ち」という言葉って「お前の感じたことには意味がない」って意味しか伝えていないんですよね。まなざし論、まなざし村、お気持ち論、こういう言葉を使えば、「客体化はやめろ」という女性の主張を無効化できると思っているのかもしれません。でも、それには根拠がない。つまり「お気持ち論」「まなざし論」「まなざし村」って言っている人のほうが、主観だけで根拠なくいっているんですよね、言い返したいだけで。それってとても貧しい行為です。お気持ち、まなざし論といっていたら、女はバカだ、しかし、男は冷静で賢いのだ、と仲間同士で慰められる、そういう符丁と化しているように思います。

 

一方「客体化やめろ」という女性たちの声には、根拠がないんでしょうか?

根拠はありますよね。嫌なものを嫌だという、やめてほしいことにやめろという。

それを尊重されるのは、人間として当たり前のことです。当たり前のことを言っている、というのが、根拠です。人には嫌なものを嫌だという権利があります。

Rightですからね。権利って。正しいことって意味です。嫌なことを嫌だというのは正しいことです。

じゃあ、「まなざし論」という言葉を使う側の人も、「不快だ」と言えば通るはずだと思います?見るだけでダメだという意見に対して「見るくらいならいいだろう」というのは正しいことだと思うのでしょうか。「視姦」という言葉がまだ死語になっていない社会なのに。

例えば、ポルノ的な漫画表現をやめさせられるのは不快だし表現の自由を侵害しているって思います?

ポルノ的表現が、女性や子供への加害行為を助長している事例は、いくつもすでにありましたよね。それで女性は怖がっているのです。

外出先で、子供がトイレに行くときには、女性は必ず付き添います。トイレで暴行される事件が絶えないからです。生活に不自由があるのです。実害があります。

ところで、わたしはネット通販が好きですが、見ているとどんどんほしくなります。見るという行為は、欲望を喚起させるからです。滞在時間が長いサイトでは、購入する可能性が高いということは言うまでもないかもしれません。サイトを作るとき、コンサルタントは必ず言います。

広告の基本で、「この欠けているものを手に入れれば、あなたは今よりも幸せになる」というメッセージを発するという手段があります。だから、広告は何度も見せることが大切なのですね。

人は、自分に欠けるものがあると知ると、それがほしくなります。見ていると、本当はまだ持っていないものなのに、すでに持っているかのようにも錯覚して、執着してしまいます。これは、フリマアプリでも使われているテクニックです。

 

だから、ポルノ的な漫画表現が、児童や女性への欲望を喚起していない、というのは、結構苦しいんです。「あなたには、女性や児童に対する性虐待が欠けている」って訴えかけているわけですからね。「あなたにはこれができてないんですよね」というメタメッセージを発しています。

本当は、ポルノも、性的な夢想へ、安全に導くものに過ぎなかったらいいんですけれど、ヘテロシス男性向けのポルノでは、女性か児童が性虐待の対象になっています。それが、本物の人間であっても、「性的キャラクターのイデア」としての女性であっても、結局、「その特徴を持つ者への性虐待」という欲望を喚起する点では同じです。

性虐待ポルノを見ているだけにとどまらず、仲間内で、符丁を語り合って、結束を強め合う状況は、かなり危機的に感じます。すでに「そこまでやるなんてすごい」という風潮もありますよね。日々、変質者から子供を守るために、ぼんやりすることもゆるされず、神経をとがらせると、「児童への性虐待」を面白い冗談のように消費する人を信頼できません。

 

また、表現の自由というのは、いつでもどこでも、完全に自由に許される根拠になるものでもありません。もしそうなら、ほかの自由も完全に保証されるべきですよね。でも、「安全に暮らす自由」「心配をしないで道を歩く自由」というのは、弱者にはありません。この場合の弱者というのは、社会的肉体的弱者、という意味です。あらゆる自由の中で、表現の自由は何をおいても尊重されるという決まりはないんです。

 

自由は自ら守るものだとどこかで習った人は多いでしょう。それは、いつでも自由にさせろ、という態度だけじゃなく、周りの人に気を使ったふるまいをすることで、信頼され、規制を最小限にするという態度も含まれます。

人を客体化する害については、様々な人が述べています。

でも、「まなざし論」とバカにする人たちは、「なぜまなざし論といってバカにするのか」ということを丁寧に人に伝えるように書いたことがあるんでしょうか。せいぜい、恫喝的な文章しか、わたしはみたことがありません。

気持ちや感情は大切なものです。

でも、男尊女卑な社会では、感情を女性特有の属性だとみなします。感情は理屈よりも低いもので、それを尊重するのは悪い、と考えるのが、女性差別の一つです。「男は感情をあらわにするべきじゃない」という規範を内面化しているんでしょうね。ただ、それは、男性が自分で乗り越えるべきことです。よく、女性に「フェミは男を救わない」というようなことを言う人がいますが、女性はケア要員じゃないですからね。それを言うのもフェミニズムの仕事です。

だから、「まなざし論」、「お気持ち」といって、女性の訴えを「感情的なものだから揶揄してもいいんだ」と思い、それを言ってのける、ということ自体が、女性差別的な行為と言っていいでしょう。

結論は、「感情を女性特有のものとして、価値のない、根拠にするのに足りない、バカにしてもいいもの」という態度で発せられる言葉自体は、男尊女卑、女性差別のあらわれなので、「お気持ち」「まなざし論」「客体化w」というのはやめましょう。そういう人間は紛れもなく差別者です。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください