ケアワークの不均衡

感情を使った行為を繰り返すと疲れる。
感情を人のために使うことをケアワークという。
言語化されていないことを読み取って、元気かな?機嫌はいいかな?と様子を見たり、人の相談に乗ったり、慰めたり、励ましたり、そういう感情面に関わることすべて。
昨日うちではケアワークの不均衡について話し合った。
「わたしにケアワークをしてくれ」「ケアワークをさせないでくれ」というのは、一見わがままだけど、実際には、「顔色をみる」という手間を省いているので、とても親切な行為。
自己主張が激しいという人もいるけど、そうじゃなくて、察してと思ってばかりの人といると疲れるでしょう?
はっきり要求を伝えるというのは、自分のことをモニタリングできている証。
言わないでもやってもらおうと思っている人のほうが甘えている。
もちろん、してほしいといっても、拒否されることもあるし、相手に拒否する権利はある。
それが尊重ということ。
依存というのは、全部相手に何かを押し付けること。
謝ること、判断すること、決断すること、世話をすること、健康管理を任せること。

どうすればいいか、いちいち相談してきて「こうしたらいい」と判断してばっかりは疲れるでしょう。
それはケアワークをさせられているというわけ。
責任まで取らされるなんて、損もいいところ。

決断、判断も、感情労働に代わりはない。状況と結果を判断する。決断に責任を持つ。

たとえば、わたしとパートナーとは一見、彼がしている仕事量のほうが多いけれど、ケアワークを担っているのはわたし。
彼は自己モニタリング力がまだ弱い。
だから、わたしはそれを補う必要がある。気持ちや、感情、体調全般。何を必要としているのか、どうしたら、よくなるのか。

彼はわたしにたいして、それができない。だから、わたしは自分のことを自分でする。

してほしいと頼むときもある。でも、「察して」くれることはまずない。わたしは彼の顔色を見て、判断して、どうしたらいいか、考えるのに。
思いやってもらっているという感覚が、必要なのに。

昨日起きたことは
「毎日相談してくる人がいて困る。ラインがめんどい。しんどい。もういやだ。自分で決めて自分でやってほしい。だからそういったのに、わたしはしつこくできませんよ笑って返事が来てなんも通じてなかった。もう無理だからやだ」
と言ったら、へんな顔をしているので
「どうかした?」
と聞いたら
「僕もいつかいやになられるのかなって」
と言われた。
本人も言わないほうがいいと思ってたから変な顔をしつつ黙っていたらしい。
だけど、変な顔をしていたら、聞くし!聞くことですでにこっちは労働している。
で、「そもそも変な顔をしたのが悪かった」と言われたんだけど、感情を持つな表現するなと言っているわけじゃないので、最初から
「僕のことを嫌にならないでね」と言えばいいのだ。
毎日ラインで相談されるというのは子育て中にしんどい。だからいやだ。自分で判断してほしい。
で、それと一緒に生活しているパートナーが同じわけない。
だから、その後わたしは
「わたしをケアしてよ!」と言ったら「体が動かない」と言われた。
「あのね、ケアしてくれというのがすでに親切で、足もんでほしい、ぎゅっとしてくれっていってるんだよ、それでなんで悩むのさ」と言った。
もう、こういう話し合いもはっきり言って疲れるし面倒だけど家族だからしている。

わたしが、自分を慰めるために、「足をもんでほしい」と具体的に言っているのは超絶親切なことでそれで仲直りしようと言っているのになんか悩んでしてくれないのでわたしは説明までしないといけないので、無限に疲れた。
自分で自分を大事にすることができないと、人のことも大事にできないいい例である。

自分の気持ちをモニタリングできず、表現できないから、他人を粗末にしたり、依存することになる。
自己表現とは自立の一種だ。
黙ってわかってもらえると思うのは甘えだ。

対等というのは、ケアワークのやり取りが同じ分量であること。
だから、子供と大人では対等ではありえない。
まして、子供にケアワークをさせていたら、大人は子供に暴力を振るっていることになる。
男女でも、男性はケアワークの経験が乏しい。自己モニタリング能力も劣っている。
でも、だからといって野放しにしていたら、絶対にできるようにならない。
だから、育ててやる筋合いはないものの、仕方がないから話し合っている。

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