察するなんて錯覚じゃないのか

察するという言葉をよく聞く。
察してしまうから困る、ということも聞いたことがある。
自動的にそうしてしまう、ということらしい。

でも、人によって経験も脳も、脳の機能も、手続きも、ルールも違うから、察したとしても、答え合わせができない。
間違っていたとしても、わからない。
間違いを間違いとして認識できないということは、それは錯覚じゃないかと思う。

同じルールで生きている人の中では、ありうるのかもしれないけれど。

わたしも、「察してもらった」ことがたくさんあるけれど、どれもわたしの気持ちと外れていた。
だから、「察してもらった」ことに合わせた反応をした。察せられたことを察したわけだ。
それが正解だったかはわからない。でも、察した側が、わたしの正解じゃなかったことは確かだ。
察する文化の人の正解に合わせるほかなかった。だって、その人は、自分の正解を、世界を疑っていなかったから。

わたしをかわいそうに思って、わたしに助言することで、自分を保っている人もいる。

わたしが物事を察せないことをかわいそうだと思っている人もいる。

でも、わたしは結構だいじょうぶに生きているので、かわいそうじゃない。

それでも、その人が「かわいそう」だから、かわいそうなふりをして、「察してもらって」いた。

本当はその人だってかわいそうじゃない。でも、かわいそうだと思わないと、わたしの気持ちのつり合いが取れなかった。

自分を保つために、わたしを供物にして、そうすることで、自分の精神を保てるのならいいのかなと思った。

それだって、わたしなりの「察した」ことだけど、正解だとは限らない。

今は不正解だったと思っている。自分にとって、それは幸せなことではなかったから。
マウンティングの一種だと思う。

助言や、察してもらうことは、わたしが求めたときだけだ。言葉によって。
態度によって、「こうだ」と思われることは、たいてい正解じゃない。脳のルールが違いすぎるから。

察する、というのは、「自分と他人が違わない」という前提に立った時にだけ、機能する。
相手が違いすぎていたら、察することはできないはずだ。
しかしそれでは、相互理解は進まない。
相手と自分が同じような人間だと思い続けて、訂正が利かない。

わたしをわかりたいと思う人は、わたしの言葉に耳を傾けてくれる。言葉も完全ではないから、誤解はある。でも、言葉同士の誤解は、比較的に、修正しやすい。

わたしにはできることがたくさんある。
それは、定型だとか非定型だと関係なく、わたしにできることだ。

わたしの能力を恵まれているという人もいる。わたしをかわいそうな人だという人もいる。

でも、わたしには、その評価は関係ない。私に関係あるのは自分が下した評価ですらない。

わたしができること、できないこと、今後できるようになることだけが関係がある。

察する、というのは、現状のルールに甘えているということだ。
錯覚を、その錯覚のまま、温存してくれるものに頼るということだ。

察することをやめられないという人もいた。でも、やりたくないなら、きっとやめられる。
やりたいから、やめられない。錯覚を信じていたいのだ、とわたしは解釈する。

わたしが、コミュニケーションができない頃から、あきらめないで、コミュニケーションをとれるようになったのだから、同じような分量の苦痛で、やめることはきっと可能なのだと思う。

でも、やめたくないのだ。便利だから。錯覚同士の世界でやり取りしているほうが早いから。不都合がないから。

わたしにも、察するという錯覚は、薄いけれど、ある。でも、一人一人が違うと信じているから、錯覚だと断ずる。

わたしの世界を他人は共有できない。そういう前提に立っている。

その認識の中で、それでもわたしに近づいてくる人、知りたがっている人に、言葉が届けばそれでいい。

わたしは、かわいそうでも、うらやましい存在でもない。ただのわたしだ。ずっと、いつも、自分を改良し続けたいと願っているわたしだ。
わたしのことを、本当にわかる人はいない。わたし自身を含めて、わたしのことは、だれにもわからない。
それでいい。

知りたい秘密が多ければ多いほど、生きる動機になるから。察する、という文化は、その秘密すら、ないことにしてしまう。

だから、わたしの世界には、察するという錯覚はいらない。

c71の著書

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