非定型の世界と誤解

定型の人からすると「非定型」の人はわかりにくいかもしれません。
わたしはというと、非定型ですが、定型の人のことも、非定型の人のこともわかりません。
定型の人が、「提携の人のことならわかる」というのは、幻想ではないかと思います。

「非定型」の非は、「定型」ではない、という意味です。定型を基準にして、その基準からあふれた人のことを「非定型」と呼んでいるわけです。

でも、定型同士でもわかり合っているとは思えません。わかり合っているならば、困りごとも生じないわけですから。

非定型の人は、なおさら、世の中から弾かれます。

難しいと言われている生徒さんの中にも、医者ではないですから診断はしないですが、非定型かな?と思う人がいます。

そうした生徒さんに合わせるのは、苦痛ではありません。

そうした生徒さんを伸ばすためには、その子の好奇心の内容にフォーカスすることが大切です。
どんな題材からでも、歴史、地理、数学、国語、英語は必要になってきます。
背景を学ぶことで、その先があるのだと示せます。

コミュニケーションの仕方が、「我々」は異なっています。
異なっていますが、それは、当たり前のことです。定型の人たちが「当たり前のように共有している」と幻想を持っていることを、はがした状態が私たちなのだと思っています。

表情や、言外の意味、そういったことが読み取れないことは、今の世界ではハードルかもしれません。
でも、そのハードルは、越えなくても、くぐれます。
越えなくてはいけない、というのも思い込みです。

表情でやり取りするのは、瞬時にやり取りするのには便利かもしれません。でも、誤解も多く生みます。

わたしたちは、言葉で誠実にやり取りすることも可能です。言葉が足りなくて誤解を生むこともありますが、それは、定型の人たちと同じくらいのリスクです。

言外のやり取りで誤解を生むのは非効率に見えます。
表情がなくても、コミュニケーションができる、文字の世界がわたしにはあります。

わたしに、言葉の世界があるように、ほかの非定型の人にも、音楽や、絵画、いろいろな手段があるはずです。
世界にコミットすることが、わたしは、怖くないです。怖くないし、やりたいと思っています。

非定型な人は、必ずしも、全員が、人とかかわることが嫌いなわけじゃないです。
関わることが嫌いだとしても、なんの、そしられる理由にもなりません。

わたしたちは、やり方が違います。定型の人たちも、本当は一人一人やり方が違うはずです。でも、その際をないことにして、均一化しようとして、それが挫折したのが、今の世の中の苦しみを生んでいるような気がします。

定型の人たちも、非定型のわたしたちと同じように、細かく、考えて、観察して、自分のことをよく把握することが大切だと思います。

わたしたちは、少人数です。だから、差異と向き合わざるを得ません。向き合わなくてもよい環境は便利かもしれませんが、幸せとは限らないと思います。

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