グロテスクに産後クライシスを表現すると

子供を出産するというのは簡単なことではない。
想像してほしいのだけど、一年近く育てた腫瘍を摘出して、三キロの腫瘍と七キロの腹水を取ってから、さあ、次の日から赤ちゃんの世話をしてくださいと言われているようなもの。臓器を一つ摘出したのと同じダメージがあるのに、さあ「あなたは、母親です」と言われて「愛があるのが当たり前」と言われる。

おなかを手のひらサイズに切り開いて、びしっと傷を引っ張って、手を肘まで突っ込んで、ぐりぐり手を動かして、赤ちゃんの肩をつかんで、えぐりだす。それが出産だった。そのあと、胎盤を引っ張りながらぶちぶちはさみとメスで切るのが痛くて、そして、ポンプみたいなので血液と羊水を傷口から取ってから、下からも同じようにぎゅぽぎゅぽ液体を出した。

臓器を一つ取り出して、夜の八時に手術が終わって、次の日の昼のは赤ちゃんの世話をする。
想像してほしいけど、癌だったら大事にしてねと言われるところ。ほかの病気でもおなか切ったらしばらく寝られるでしょう。
でも、動いたほうが回復が早いと言われて動かないといけない。授乳に20分、おむつ替え、げっぷ、泣いたらあやす。それを一時間ごとにだから、授乳して抱っこしてたら次の授乳が始まったという感じ。それが新生児。十分隙間時間があったらいいようなもの。

五か月はどうかというと、三時間ごとに二十分の授乳だからその間には、二時間四十分しかない。その二時間四十分には「遊ぶ」「げっぷ」「おむつ」「記録」「哺乳瓶管理」「掃除」「片付け」「洗濯」「料理」「皿洗い」などなどある。
もちろん、暇だったら、赤ちゃんは泣き叫ぶ。楽しかったらにっこり笑ってくれて、遊んでいるのも楽しいけど、自分を無にしないと、自分が飽きてしまうこともある。
だから、飽きないために、自作のおもちゃを作って、試して、喜んでくれたらうれしいということを報酬にしてみたりして。
手作りおもちゃは愛のためにするんじゃなくて、自分が赤ちゃんと遊ぶことを少しでも楽しめるようにするためだ。
ユーザーによるフィードバックがあるんだと思うとちょっと仕事気分になるから気晴らしになる。
思い付きを試すことができると、まだわたし、人間としての尊厳を保っているかなって思える。

子供というのは世話をしないと、そのかわいさが分からない。
だから「何かすることがあったら言ってね、やるから」という夫は全然いい夫ではない。
言わないと動かない夫はクソの役にも立たない。文字通り。
自分のクソを拭けるのだったら、赤ん坊のお尻だって拭ける。赤ん坊の尻を拭けないなら、自分の尻も拭けないはず。
妻は夫のしりぬぐいしてやる存在でもなければ役割でもない。教育係でもなければ主導権を持つ属性でもない。
主導権を握るしかない母親がいたら主導権をいったんはぎ取って休ませるべきだ。
その後、休養を十分とってから、その家庭の分担を話し合えばいいが、疲れているときには無理だ。
子供が生まれる前と同じ生活をしているほうは、泥棒をしている。相手の時間を盗んでいる。

気が付いて、意識を向けたら何でもできるはずなのにそれをしないんだから、妻に恨まれるのは当然。
意識を向け続けていないと子供が死ぬという切迫感に突き動かされているのを「お母さんだもんね」と片付けられ、たまにやる夫が「素晴らしいお父さん」とほめたたえられているのを見ていれば、ぐつぐつ煮えたぎる感情が生まれる。

あの人はいい人なの、と言われても、実際に、子供が生まれる前と同じ生活を維持しているならそいつはいいやつではない。
妻が死んでもかまわないという行動だ。そう思っていないとしても、実際にしていることは「妻が死んでもいい」と思っている行動だから、いい奴なんかじゃない。
臓器を一つとって、睡眠時間が良くて二時間みたいな妻を放置しておいて「やれることがあったら言ってね」と言っている奴はいい奴なんかじゃない。

わたしなら、そいつを刺し殺す計画を立てる。泣き叫んで、夫に詰め寄る。私はおそらく死ぬかもしれないがお前はそれでいいのかと。

それが正常だと思う。

でも、そうしないで、怒りもせず、くたくたになりつつ、切れないで、それが当たり前だと思っているとすれば、もうそれは正気を失っていて、誰かの助けを必要としている。そういう家庭がいたら、放っておかないで、口を出したい。
文句ひとつこぼさず粛々と家事育児仕事をこなす女性がいたら、体が丈夫なのかもしれないが、わたしはその人が助けを求められないほど判断力が弱っているんだと思う。内臓一つとって今まで通りに生活するどころか、寝ないで誰かの世話をする人がいたらおかしい、大事にしろというじゃないか。母親にだってそうするべきだ。

母親の育児が偏ることがあるかもしれない。それは、子供と母親に接している人間が少なすぎるからだ。誰かが偏っていても、大勢が関わっていたら、偏りは小さくなるはず。そういう風に考えるのが行政。
保育や教育が家庭ごとにあまりにもばらついていたら、その子供に不利益があるから、均等にしようとするのが政治。
大勢の人間が関わったうえで、選択肢を提示しなければ、母親は寄る辺なく、何かに頼ってしまう。それが夫じゃない場合もある。夫じゃなくて、マルチや、カルトかもしれないし、自然食品かもしれない。話を聞いてくれる人がいなければそうなる。
今まで通りの生活をしようとしたら、家庭は崩壊する。夫婦仲も消滅する。


常識を疑わない人々

学力の上位層は、試験が得意だ。
体力があって、試験が得意で、家がお金持ちだと、常識を疑う機会が少ない。
常識通りに生きていけばうまくいってしまう。
だから、内部に生じる葛藤に気付きにくく、それが表面化することもないので、解決しにくいんじゃないかなと思った。

年々、そういう人たちとは、話が合いにくくなっている。特に、体の丈夫な人とは話が合わない。

しんどいのレベルも、実家が嫌だというレベルも、体調の悪いレベルも、何もかも合わない。
ライフステージの進み具合が異なると、話が合わない。
また、「自分が話して」「相手が話す」という順番を飛ばしてしまう人とも付き合いにくい。
「私今こうなんだ」
「私のほうがもっとそうだよ」みたいなのとかね。
話を聞いているようで、自分のターンにもっていってしまう人。
順番に話せばいいと思うんだけども。

日本のヒップホップの人たちが「親に感謝」ばっかり言うのは、それが当たり前じゃないからなんじゃない?とふと思った。
わたしはああいう「味噌汁いえーい」みたいなノリは嫌いだったんだけど、ふと、「もしかしてそういうのが当たり前じゃないから、だから歌ってるのかな」と思ったりして。
私の周りは親孝行がデフォルトだから、親を捨てるのがたいへんだった。でも、親を捨てるのが前提な人たちにとっては「親を大切に」「親に感謝」「お前に感謝」がむしろたいへんなのかもしれない。

身を固めろというのがうっとおしいと思ってたけど、あれも、「親離れ」は早いほうがいいという意味もあったのかも。
親から離れるためには、親が元気なうちじゃないと捨てにくい。
親に介護が必要になったら、もう、親を捨てることが難しい。
親を捨てるのは、親が自立して暮らせる間だけだ。元気なうちに捨てて、実績を作って、「子供を出産するような大変な時にも交流がありませんでしたよ」と言って、わたしは、親の介護を回避しようと思っている。
でも、親が元気な時に頼って、交流があって、いざ、倒れてから、「やっぱり捨てる」というのは、わたしには難しいことかもしれない。
それだから、早いうちに家庭を持つという表現が、必ずしも良いとは限らないとしても、家庭を持てば、親も、口を出しにくいという一面があったのかもしれない。
一人暮らしだと、一時的なものだと思われて、帰ってこいと言われてしまうから。

だんだん、親を捨てたことも含めて、話が合わない人も増えるんだろうなと思う。
それもまた自然なことだよなと思った。


女に「教えてあげる男」

誰かに何かをさせるというのは、暴力になりうる。

話を一方的にすることも暴力の一形態だ。
相手の話を聞いているつもりで、単語しか読まず、自分の話だけを延々として改めないという暴力がある。
それは被害者が読めば加害だから、やめろという話が理解できないのだ。
これは、思いやりがない、共感がないのではなくて、「国語として読む力がない」「知識を与えるべき下位の存在から言われる話がないと無邪気に心から思っている(信じるというレベルでもない)」ということだと思う。
だからといって、あなたには読む力がないようですね、といっても「あおり」みたいだし、何といっても通じないだろう。
落ち着いて文章を読んでくれと言っても、音として読むことができても、文章として、言葉と言葉とのつながりを理解できない人には何を言っても仕方がない。単語を拾ってそこから喚起されたイメージを「読んだ」と信じている人はたくさんいる。

それでも、目の前のセカンドレイプを放置しておけないから、それは加害だということを言う。
でも、当事者だと名乗れば、自分の傷を深めることになるので、当事者がすることには限度がある。

言葉もないなら黙ればいい、そのうえでいうなら、わかっててセカンドレイプしているわけだから罪が重い。
女性が就学し、就業するためには、TPOにあわせた衣服を着る自由が必要だ。
しかし、それを制限する考えが生まれてくる時点で「加害者メンタル」だ。
衣服の自由を制限することで犯罪にあわないようにしろ(しかし、服装に気を付けても犯罪に会わないわけではない)と、引き裂かれた命題を一方的に与えることができると思うのは「被害者」を「下位」の存在だと思っているからに他ならない。

対等だと思っているなら、そんな無茶苦茶な「アドバイス」をするのだろうか?
男同士で「おやじ狩りにあった」「金持ってそうな格好してたのが悪い」
という会話をしたら、そいつは、正気を失っていると思われるだろう。女に関してそれをしても、「正気を失っていると思われないだろう」と思えるのは、やはり、女をバカにしているのだ。


犯罪にあわないですむ服があったとしたら、その服を置いておけるだろうか?
そして、その服を着ていこうという日はどんな日だろうか?
通学?通勤で使えるか?
また、それを着ていたら、「女性だ」という属性がばれるわけだから、なんとしてでも、嫌がらせしようという人はいる。
男になるしか、このミソジニックな世界で、被害者にならないで済む方法はありはしない。

服装の是非ではなく、攻撃対象になる「性」であることが原因なのだ。

正確に言えば「その属性だったら攻撃していい」と社会的に容認していることが原因だ。
服装を変えれば犯罪にあわない可能性があると言い募るのは、「属性に関するイメージを社会が変えるは不可能なので、お前は努力を続けろ」という絶望的なメッセージである。
「社会を変えることは不可能だが、被害者を変えることは可能だ」
これ自体が、どうして、人を傷つけないと言えるだろうか。
被害者は、被害者になった時点で変えられる。
女性は赤ちゃんの頃から、性的対象とみなされ、性的搾取される。
だから、自分の尊厳を尊重しきって育っていない。
そのうえ、自己表現もはぎとられたらどうなるか?
性暴力が奪うのは、自分の体や、自分の心をコントロールできるという信頼である。
信頼を奪われて、「自分は自分の体をコントロールできない」「自分の体は自分のものではない」「自分は汚れている」と思わされるのが性暴力だ。
体のイメージや写真を奪われて、好きなようにされても、心が傷つくのはそれが一因である。

服装を指図されるというのは、「お前に自分の体をコントロールさせない」「男に襲われたくなければ男である俺の言うことを聴け」ということで、理屈としては性暴力と変わらない。

「社会は絶対に変わらない」というのが、こういう人たちの前提だ。
犯罪者はいなくならない、だから、被害者に努力をさせる。それが理屈であり合理的だと思っている。
犯罪者も、被害者として選ばれる属性も変えられない、属性の持つ意味も変えられない、だから、属性の中に居続けながら、それでも、被害者として選ばれないけなげな努力をしろということが、攻撃じゃなくて何だろうか?

この人は、ひとめがあるなら、性犯罪は起きないと思っている。
それ自体が事実誤認で、勉強不足でどうしようもない。それを指摘されてもなお、「意味がある主張をしている」と信じられるのだから、傲慢だと言われても仕方がないだろう。
家の中でも家の外でも未知でも学校でも会社でも駅でもカラオケでもプリクラでも性暴力は起きる、レストランでも居酒屋でも病院でも性暴力は起きる。道を歩いていても、妊婦でも、母親でも、年老いていても、弱いとみなされれば、暴力の対象になる。
弱いとみなされること自体が、犯罪の原因なので、社会が「この属性は弱いとみなす」ことをやめて、その属性からパワーをはぎ取ることをやめれば原因は一つ減る。
でも、それをしないで、「被害者」「女性」「公の場」で、「服装を改めろ」と言い続ける。

この人が、やめろというまで、リプライをやめなかったことから、同じ内容を三回リプライしても効果がなかったことを鑑みると、単語しか読めないという結論しか導き出せない。

リスクは、日本という社会に女と一見してわかる見た目で生まれたことだ。
だから、社会を変えることが一つしかない解決方法だ。
見た目を変えろ?それは人権侵害だ。
この簡単な話が理解できない人間が人に指図をして回ることができる。そういう自分を疑わなくて済む属性のまま、今まで生きてくれた。
それが男尊女卑のあかしだ。

読めないのは仕方がないのか?でも、読めないなら黙っていてほしい。有害だから。
暴力だから。
人のニーズを満たす気もなく(話を聞かない)、自分のニーズを満たせと要求し続ける(話を一方的にする)ことができてきたんだろう。
一見、わたしも同じことをしているが、それは、相手が暴力的な言説を振りまいていることに対する対抗なので、暴力の使いどころが違うということだ。

犯罪を減らしたいなら被害者に働きかけるのではなく、加害者にはたらきかけるべき。
ほとんどの被害者が女性で、女性を選んでこうすべきと指導すること自体が性差別的であり、性加害の動機である権力の発動と同じ機構なんですよ。


ケアワークの不均衡

感情を使った行為を繰り返すと疲れる。
感情を人のために使うことをケアワークという。
言語化されていないことを読み取って、元気かな?機嫌はいいかな?と様子を見たり、人の相談に乗ったり、慰めたり、励ましたり、そういう感情面に関わることすべて。
昨日うちではケアワークの不均衡について話し合った。
「わたしにケアワークをしてくれ」「ケアワークをさせないでくれ」というのは、一見わがままだけど、実際には、「顔色をみる」という手間を省いているので、とても親切な行為。
自己主張が激しいという人もいるけど、そうじゃなくて、察してと思ってばかりの人といると疲れるでしょう?
はっきり要求を伝えるというのは、自分のことをモニタリングできている証。
言わないでもやってもらおうと思っている人のほうが甘えている。
もちろん、してほしいといっても、拒否されることもあるし、相手に拒否する権利はある。
それが尊重ということ。
依存というのは、全部相手に何かを押し付けること。
謝ること、判断すること、決断すること、世話をすること、健康管理を任せること。

どうすればいいか、いちいち相談してきて「こうしたらいい」と判断してばっかりは疲れるでしょう。
それはケアワークをさせられているというわけ。
責任まで取らされるなんて、損もいいところ。

決断、判断も、感情労働に代わりはない。状況と結果を判断する。決断に責任を持つ。

たとえば、わたしとパートナーとは一見、彼がしている仕事量のほうが多いけれど、ケアワークを担っているのはわたし。
彼は自己モニタリング力がまだ弱い。
だから、わたしはそれを補う必要がある。気持ちや、感情、体調全般。何を必要としているのか、どうしたら、よくなるのか。

彼はわたしにたいして、それができない。だから、わたしは自分のことを自分でする。

してほしいと頼むときもある。でも、「察して」くれることはまずない。わたしは彼の顔色を見て、判断して、どうしたらいいか、考えるのに。
思いやってもらっているという感覚が、必要なのに。

昨日起きたことは
「毎日相談してくる人がいて困る。ラインがめんどい。しんどい。もういやだ。自分で決めて自分でやってほしい。だからそういったのに、わたしはしつこくできませんよ笑って返事が来てなんも通じてなかった。もう無理だからやだ」
と言ったら、へんな顔をしているので
「どうかした?」
と聞いたら
「僕もいつかいやになられるのかなって」
と言われた。
本人も言わないほうがいいと思ってたから変な顔をしつつ黙っていたらしい。
だけど、変な顔をしていたら、聞くし!聞くことですでにこっちは労働している。
で、「そもそも変な顔をしたのが悪かった」と言われたんだけど、感情を持つな表現するなと言っているわけじゃないので、最初から
「僕のことを嫌にならないでね」と言えばいいのだ。
毎日ラインで相談されるというのは子育て中にしんどい。だからいやだ。自分で判断してほしい。
で、それと一緒に生活しているパートナーが同じわけない。
だから、その後わたしは
「わたしをケアしてよ!」と言ったら「体が動かない」と言われた。
「あのね、ケアしてくれというのがすでに親切で、足もんでほしい、ぎゅっとしてくれっていってるんだよ、それでなんで悩むのさ」と言った。
もう、こういう話し合いもはっきり言って疲れるし面倒だけど家族だからしている。

わたしが、自分を慰めるために、「足をもんでほしい」と具体的に言っているのは超絶親切なことでそれで仲直りしようと言っているのになんか悩んでしてくれないのでわたしは説明までしないといけないので、無限に疲れた。
自分で自分を大事にすることができないと、人のことも大事にできないいい例である。

自分の気持ちをモニタリングできず、表現できないから、他人を粗末にしたり、依存することになる。
自己表現とは自立の一種だ。
黙ってわかってもらえると思うのは甘えだ。

対等というのは、ケアワークのやり取りが同じ分量であること。
だから、子供と大人では対等ではありえない。
まして、子供にケアワークをさせていたら、大人は子供に暴力を振るっていることになる。
男女でも、男性はケアワークの経験が乏しい。自己モニタリング能力も劣っている。
でも、だからといって野放しにしていたら、絶対にできるようにならない。
だから、育ててやる筋合いはないものの、仕方がないから話し合っている。


わたしがくるってしまうのは

わたしの心で何が起きているのか、全然見当もつかない。
思い出すのは、色気づきやがって、塗りたくりやがって、あんたなんてだれもみてない、みっともない、髪を伸ばせば汚らしいと言って断ち切りばさみで切られ、短ければかっぱみたい、スキンケアは一切許されない、鏡を見ていれば、自意識過剰、見ても何も変わらない、雑誌は無駄、お小遣いはお父さんからもらいなさいと言われお父さんに会えば小銭をうえからおとす、お年玉をもらえばだれがお返しをするんだと思っているんだとののしられて、「はやりならば鼻水もきれいっていうもんね」と出かけるときに言われて。
サークル参加したときに具合が悪い時には、わたしの本をもって、母親がサークル参加し、友達に会いに行き、高校の卒業式は、母の友達とご飯を食べることになって、写真館で撮った写真は母が前にいて私が後ろ、母はにこにこしていた。

成人式は「高校の卒業式したんだからいいでしょ」と言われた。
レースのブラウスを買ったら、「意味ない、へん、もったいないから返品しなさい」と言われて、服を買うたびにそれをされたのでつらかった。
そういうことを思い出しながら服を買うから、いつも罪悪感と重圧でいっぱいになりながら、その思い出をはねのけようとしながら買う。
今のがしたら二度と買えない、我慢する日々はもう二度とごめんだそう思って買ってしまう。
隙じゃ無い格好をするのは二度と嫌なんだ。
十五年前のおさがりを中高生と着せられて、みじめな思いをしたのを思い出す。服を着るのが怖かった。
外に出たくないから、家にいると邪魔だと言われて、外に出ても、外に出ていたなと怒鳴られ、家の中で気配を消してじっとしていたら、あんたは頭がおかしいと言われる。
とろい、融通が利かない、あたまでっかち、頭がおかしい、変な子、育てにくい子、かわいげのない子、うるさい子、そういう風に言われたことを服を買うたびに思い出す。
わたしは押しつぶされそうになりながら、それに抗おうとする。そうすると買いすぎてちょうどいい量が分からない。
盗られると思う。
わたしの数少ない買った服は、いつの間にか妹が着ていた。
妹はいつもブランドの服を買い与えられていた。成人式にも振袖を着ていた。
おしゃれだといつも褒められていたのは妹、それに比べてどんくさくて勉強だけの姉、気が利かない、何もできない、運動は苦手で無能で心がない、非情な子、非常識な子、友達がいない子、と言われていた。
受験に合格したら、「喜ぶな」「喜んだらそこで満足して成長が止まる」と言われて喜ぶことも禁止され、けがをしたら「とろいから、ほかの人の迷惑になった」
未知で倒れて、救急車を呼ばれたら「いくらかかると思ってるんだ」と胸ぐらをつかまれる。
病院に連れて行ってほしいと言ったら「私のほうが具合が悪い」「近所で噂になったらどうする」「迷惑なのはこっち」「運転したくない」
骨折をしても、病院に連れて行ってもらえず、骨折させた相手に私が謝らされた。わたしがとろいから。
服を買うということは、そういう背景が、わたしにくっついている。
趣味をするときも、勉強以外のことは無駄だから、やってはいけない、無能な、価値のない、お前がというセリフを振り払いながらするから、とても疲れて、過剰になる。
闘わないと、できない。
だからしんどい。
下着を買ってもらえなかった、みんなと同じようではなかった。
修学旅行の時みんなが新しいパジャマや下着、服を買ってもらうようなことはなかった。
みっともないみっともないといわれて、足の白さを人に言われたら「色気があるでしょ日に当たってないから」と言い、母は、わたしに赤ちゃん言葉でしか話しかけないでいて、成人した誕生日のプレゼントは三歳児対象のおもちゃだったから、わたしは泣いたが「泣くなんて意味が分からない、あんたは感謝の心がない頭がおかしい」と言われた。

わたしが、モノを扱うことや買うことについておかしいのは当然だと思う。
でもその当然をほかの人は知らないから、奇異な人間だと思う。思われてしまう。でも、いちいち、こんな説明はできない。
母には、ふろを覗かれ、あんたは肌が白いね、体が成長したと言われて、着替えを見られ、口にキスをされ、触られ、みじめで、自分の体が自分の者じゃないようだった。月経になったとき、パニックになって泣いたら、怒鳴れなじられ辱められた。
眠っていれば、たたき起こされて、眠っている暇があれば、勉強をしろ、ふらふらになれば、這ってでも学校には行けと言われていた。生理用品を使いすぎると言われて、いくら血が出るのか知らないけど、生理用品だってただじゃないんだからね、いくらかかると思っているんだ、変える頻度を少なくしろと言われて、その通りにしたら、同級生の男子に「なんかにおいする」と言われて死ぬほど恥ずかしかった。
母はそういう人で、わたしはそういう「普通」を生きた。


趣味とレギンス

レギンスをたくさん買ってしまった。
わたしは高校生の時にレースのブラウスを買ったら「ばかばかしい、返しなさい」と言われて、返した。
妹にはダサいとののしられ、おしゃれをしようとすると色気づいたと母親にバカにされた。
事件が起きて母を頼れず、乳の家に身を寄せたが、男物の服ばかりを渡されたり、ほぼ残量なしの、すみに粉が残ったアイシャドーや、マルチのアイシャドウの古いやつを渡されたりした。
ショートパンツを履けば「そういうところだめだ」と言われたり、「あなたのうちに慰謝料を払ったからうちは裕福じゃなかった」と言われたりした。
そういうことを思い出しながら、もらった男物の服を遅くなったが処分しようと思う。

わたしは浪費ばかりしている。パートナーは悲しい顔をする。
彼がわたしを責めることはありえないのだけど、わたしは顔色を窺ってしまう。
母親にしたように。母親にとって正解はなかったけれど、顔色を窺ってわたしがおどおどすると、イライラしながら気持ちがよさそうだった。
だから、わたしは、今でも顔色を窺ってしまう。

ほしいものをリストにして、それを買った。でも、そのあとにレギンスがほしくなってたくさん買ってしまった。
わたしも、レギンスそんなにいらないと買う前にパートナーに話した。でも、迷っていると。
で、買った。
それで、わたしは自分が分からなくなった。

わたしはおしゃれをしたかった。でも、できなくて、自分がみっともないと思い続けてきた。
今遅くなったから、早回しで、取り戻したい。だから、たくさん買ってしまいたい。
そうすることで、消化できたらいいのに。

趣味も少ない。パートナーと比べてしまう。
パートナーは、ピアノも、株も、勉強もする。
わたしは、手芸をするくらい。本を読むことは、具合が悪くてできない。
だからわたしは自分を劣っていると思う。わたしは、なんてだめで気持ちの悪い生き物なのだろう?
自分自身をコントロールすることができない。
わたしは、十二月三十一日から、午前一時から四時に起きて、どうしても眠れず、昼寝もしていないから、体がボロボロになってしまった。
今日は、昼間ふらついて、頭痛と吐き気がして、体に力が入らなくなった。
そして、通販でレギンスを買った。

主治医は、失敗しながら学んで、ま、いっか、で流しなさい、悩んでもその中からは何も出てこないから、と言った。
家事ができるようになったように、何年かかけて、少しずつできるようになるからといった。
わたしにも、人生を取り戻せるだろうか?

いろいろな人がわたしから、感情を奪っていった。
母はわたしに喜ぶなと言った。
そして、成人式を「高校の卒業式をしたからいいよね、もったいないから」と言った。

妹はもちろん振袖を着ていた。

ときどき、息が苦しくなって死にそうになる。空気がなくなったみたいになる。
趣味がない、わけじゃないのに、趣味がないわたしには中身がない空虚な人間でみすぼらしくこの世に存在するだけでこの世界を汚していると感じて、死にたいとも違って消え去りたくなる。何の痕跡も残さずに。


子育てはさみしいの連続

母乳を卒業してしまった。
あの暖かさや、縋り付いてくる感じや、ぼんやりした顔、満足しながら眠っていつの間にか口を開けたまま眠っているのをもう見られないんだなと思うと、胸がざわざわしてしまう。
この子はこの子が必要なことをすでに知っていて、わたしはそれを手助けするだけなんだな。
あっという間に終わってしまうというのは本当で、毎日かみしめるように過ごさないと、どんどん感情があふれてこぼれてしまって二度と会えない。
せつなくてつらくてさみしくていとおしいから離れがたいけれど、巣立てるように、一人で生きていかれるように、最後には私たちを必要としないようにするのが目標だから、育児はさみしい。
それは孤独だからじゃなくて、わが子がいとおしくていとおしくて仕方がないから、成長の一つ一つがきらきらと輝いている、だから、その輝きをみてしまうと、でも、もうそれができなかったころには戻ってくれないから、昨日のあの子にも、生まれたてのあの子にも、過去のあの子にはもう会えない。
あんなに愛したのの、過去のあの子はもういない。
現在のこの子はいて未来のこの子にも会える、それは知っているけれど、あの子には会えない。
笑顔がどんどんうまくなる、声を出して笑ってくれる、あやせばずっと笑ってくれる、泣くこともあまりなくて、必要なことを教えてくれるからそれをしているだけ。
こんなにかわいいのに、見つめているだけで疲れてしまって、わたしは倒れこんでしまう。ときどきつらくなる。
そういうときには人を呼ぶ。密室育児が毒だと思うから、みっともなくても、助けてもらったり疲れたら疲れたからという。
お客さんにも手伝ってもらう。どんどん招待して、どんどん開いた家庭にしたいと思っている。

わたしにはわからないおもちゃの使い方も、赤ちゃんのほうがすでに知っていた、という言い方をされている方がいて本当にそうだと思った。
わたしたちも、子供たちも、同じように賢く愚かで未熟なのだ。
そして、お互いに愛しい。
対等ではなく、でも、尊重し合える。

どうしよう、とてもさみしい。あの子はいるのに、あの昨日までの子はいないんだな。


えらいパパ?&卒乳

赤ちゃんが母乳を吸いたがらなくなって、一週間たつ。
もう、見向きもしない。まだ母乳は出るけれど。
もともと、母乳の出は良いと言われていたのだけど、産後鬱になって、増えてくれなかった。
それでも、四か月、吸ってくれていた。
でも、お正月から吸ってくれなくなった。
すごくさみしい。
あの暖かさ、懸命さ、もう味わえないなんて。

でも、これも、自然な流れだから、受け止めよう。
受け入れることはできないから。

「うんちのおむつ替えるなんて偉いパパね」
と言われて、わたしたちは戸惑った。
おむつを替えるのは正直に言うと楽しい。
健康状態もわかるし、赤ちゃんも喜ぶから。
穏やかな子だとよく言われる。お尻が汚れても泣かないで、「えうえう」と教えてくれる。
穏やかなのはママが穏やかからだよ、と言ってもらえるけど。

それにしても彼が褒められる率はすごい。行くところ行くところで褒められる。
わたしたちは、二人でするのが当たり前だと思っている。だから、困惑する。
わたしの具合が悪いので、むしろ彼にかかる比重のほうが多い。だから、「わたしがダメなのかな」と落ち込んだ。
でも、話を聞いているうちに、どうも、世間の男性が
「おむつ替えは汚いから嫌だ」と言ったり、
ちょっとでもしたら、
「イクメン」といって、威張ったりするらしいのだ。
おむつ替えについては、汚いからという理由らしいけど、その人は、汚いからといって自分の尻を拭かないのか?と思う。
そのほうが汚いと思うんだけど……。
イクママという言葉がないから、イクメンといって威張る理由もわからない。やって当たり前。
もちろん、わたしたちは二人でいるときには、お互いねぎらうようには思っているけど、根本的には、赤ちゃんが無力だから、対赤ちゃんとしてはやって当たり前。大人同士では感謝すれども。

保育園に行かせているから、卒乳はやむを得ないのかなと思う。
去年の暮れに母乳がたくさん出ているから、やれる間にやってね、と言われた言葉が身に染みる。
もっと、頑張ればよかったのかな?
でも、頑張ってわたしがいらいらするよりは、のんびりだらだらしているほうが、赤ちゃんは幸せそう。

夜寝る前に、川の字になって寝ていると、赤ちゃんが、わたしと彼を交互に見て、ずっと頭を振り続ける。
結構なスピードで。そして、にこにこしたり、けたけた笑ったりする。
両方に、二人の顔があることが面白くて、幸せらしいのだ。どっちを向いても、パパとママの顔がある。
わたしたちは、にこにこ見てる。

赤ちゃんは、必ずしも抱かなくても、そばにいて、何かしているだけでもうれしそうだ。
昨日は一時間かけて、服の毛玉を毛玉とりでとっていた。それを赤ちゃんの隣でしていたら、じっと「ママちゃんはすごい」と尊敬のまなざしで見られていた気がした。
赤ちゃんは洗濯物を畳むところを見るのが大好きだ。たぶん、ひらひら動くのが楽しいんだろう。

クリスマスのオーナメントのキラキラの青い球を束ねてつるしたり、ラメの紙をつるしたり、あみぐるみのたこさんをつるしたりすると、引っ張って、ぐりぐり振り回して、青い球をかんかん言わせたり、紙をぶわぶわさせたり、たこさんを吸ったりしている。
一人遊びが上手だ。
いつまで手製のおもちゃで遊んでくれるんだろうなあ。
たいしたことがないものでも、喜んでくれるから、何がうれしいか知恵を絞るのも楽しい。
きらきらして、軽く動いて、音がするものが好きみたい。
お祝いでいただいた、すべすべのタオルにうさぎさんの頭が付いたぬいぐるみが今一番のお気に入りだ。
なめるときの舌触りがいいらしい。
ぬいぐるみそのものだと抱きしめにくいけど、タオルだと、まだ小さい手でも握りしめることができるから、それがいいらしい。
いただいた時は頭だけのぬいぐるみにタオルがついているのはどうやって使うんだろう?と思ったけれど、贈ってくれた人はよく考えてらっしゃったのだな、と感心しきり。

卒乳も切ない。
パパばっかり褒められるのも切ない。
でも、それだけ、ほかの男性がしていない現実を反映しているのだし、卒乳してしまうのも、いろいろな人の手を借りることができるんだと思えるといいな。


躁状態が一週間目

夜中の一時から四時に目が覚めてしまう現象が一週間続き、とてもしんどい。
また、赤ちゃんが母乳を拒否するので、一日一回しか授乳できていない。
もうこのまま卒乳かな。

落ち着かなくて、ほしいものリストを一生懸命作る。
ぼーっとしていたい。でも落ち着かない。
なにかしないといけないと思う。でもなにかやらかしそうでこわい。


服を処分すること

服を買うことについての罪悪感は消えないものの、衝動があるため、買うことはできる。
今度の課題は、処分すること。
処分することにはものすごい葛藤がある。
処分したら、二度と会えない。気に入って買ったので愛着がある。
親に二度と会わないと決めるのはたやすいのに、服とおさらばするのはつらい。

今日、服をもらってもらった。
とてもかわいいスカートで、暖かくて、柔らかくて素敵だった。
でも、二年たつのに一度しかはかなかった。
服もかわいそうだ。
流行からも離れる前に誰かに来てもらったほうがいいと思って手放すことにした。
そのスカートのことはずっと頭にあって、「はかないといけない」「でもはく機会がない」という葛藤で苦しんでいた。
普段はワンピースを着ることが多いので、スカートを穿くことは、特に冬にはあまりないのだ。

服を処分して、すっきりした気持ちと、さみしいという気持ちが入り混じっている。
とても喜んでもらえた。
今はこのことについて考えたいと思っている。
服を処分することって、自分を大事にすることじゃないかと思った。
着ない服を着ないと決断すること。
自分がもっと嬉しい気持ちになる服のために、場所と心のスペースを与えること。
着てくれる人に渡せるなら、それはものを大切にしていると言える。
着たくない服をもったいないからと着るのは自分を粗末にしている。
服のことも雑に扱っている。
服をまとうということは、自分の一部を形作るということだから、そこに不満があると、自分に不満が向かってしまう。
だから、これでよかったんだ、自分を大切にするために服を手放したんだ、着ない服をずっと持っている、というのはストレスだ。
もちろん、痩せたらご褒美に着ようと思うとか、楽しみに持っているならいい。コレクションしたって良いんだ。
でも、着なきゃいけないと思うようなら、自然に着てくれる人に来てもらったほうがいい。

でもさみしい。すごくさみしい。
後悔もしているのが本音だ。
でも、また新しい服と出会える。

細菌はブランド物の中古を買ってきて、またリユース産業に戻すということをしている。
レンタルみたいなものかもしれない。
新品を買うと気分がすごく上がるけれど、気楽に服を試すのもいい。
ブランド品を気楽に買うことはできないけど、良い縫製や生地の経験を積むことができるから、中古で万歳だ。
新品の付加価値というのはどんなものにも絶対的にある。
わたしはそれには価値を見出せないからこれでいい。

服を処分するのは悪いことじゃない。
なんで悪いことだと考えているのか、どこでその価値観が植え付けられたのは考えないようにしたい。
後悔は過去に今の時間を費やすし、焦りは未来を食いつぶす。