自閉症スペクトラム戦記、出版されました

自閉症スペクトラム戦記

自閉症スペクトラム戦記

自閉症スペクトラム戦記出版されました。

ノンフィクションで、精神科に入院して、発達障害、躁うつ病、自閉症スペクトラムを診断されて、精神障害者手帳を取得するまでの過程や、家族との葛藤を描いた本です。

本を出すまで、ずっとドキドキしていました。

今は、すごい気持ちになっています。やり遂げたような。怖いような。震えるような気持ちです。脱力したというか。
わたしの経験が誰かの役に立てればいいのだけど。

文学フリマに出したものを、手直しして書きました。
あとがきもあります。

分量は、とにかくたくさんあります。
読み応えのあるノンフィクションを読むなら、おすすめです。
文庫本46ページくらいです。

これが以前出版した小説とエッセイです。

紺

ベシー占いもよろしくね。

www.vesii.jp


電子書籍「自閉症スペクトラム戦記」近々出ます

今、協力してくださる方がいて、文学フリマで出していた、「自閉症」関連の書籍を作っています。
今とは、心境も違うのですが、その時の気持ちを書いたものです。

それが出るのが一番最近の楽しみです。

もう少ししたら、出版できるので、興味のある方は買ってください。お願いします。
いい本になりそうで、テンションが上がっています。

紺

こちらの本は小説でしたが、戦記は、完全なるエッセイです。
自閉症を診断されてから、手帳をとり、フリーターになるまでのことが書いてあります。


ミラーなわたし

わたしは人の欲望を読んで、それを実行してしまいやすい。
それは、相手が喜ぶなら、自分が死んでもかまわない、という思考の癖があるせいだ。
死ぬ、というのはいろいろな意味があって、肉体的に死ぬということももちろんあるけれど、精神的に、死ぬということだ。
自分の意思を放棄して、一回、捨ててしまう。

捨てて、相手に合わせることで生き延びようとしてきた、生存戦略の歴史があるからだ。

だから、自分と他人の境界線が甘いこともあるのだけれど、相手に合わせてしまいやすい。
そして、自分の健康を害してしまう結果になることも往々にしてある。

でもそれを、わかってくれる人もいて、あとから、「あれはあなたの意思だったの?」と聞いてもらえることがあった。

それは、とても意外なことで、わたしはわたしであって、いいのだと感じた。
自分が相手の希望を、特に却下する理由がなければ受け入れようとするのは危険なことだ。
でも、それらの操作は無意識にされることなので、自分では、気を付けにくい。

だから、わたしに希望をぶつける人が、気を付けてくれるならば、ありがたい。

わたしは、不完全な人間どころか何か欠けている。

そういうとき、リセットするには、自分にとって何が得で何が利益になるのか、メリットになるのか、デメリットは何か、理詰めで整理すると、その状態から脱しやすい。

感情に流されて、感情に翻弄されていては、自分の人生を生きられない。

わたしがわたしを生きるためには、お金だけじゃなくて、情緒面の成長も必要なのだと感じた。


自分の気持ちがわからない

わたしは自他の区別があまりないのか、人の顔色を窺って、相手の要望をかなえたいというところがある。
特に断る理由がなければ、自分に不利なことでも引き受けてしまうことがある。

違和感が重なって、だんだん積もっていくと、その人を退けることができるのだけど、最初はぽかんとしたまま、人の言うことを察して、言うとおりにしてしまう。

そういうことは、たぶん、母親と暮らしていたころに原因があって、「自分は嫌でも相手がそうしてほしいならば、そうしたら、丸く収まるだろう」というところで思考停止してしまった。

今でも、相手が喜ぶならば自分のことはおいておいて、まず、その人の要望をかなえようと無意識に考えて行動してしまう。

ゆっくり考えることがしにくいので、人生が、急転直下になりやすい。

それを気を付けないといけない。

なんらかの不安や違和感があるので、それを大事にしていきたい。
それが、本当のわたしの気持ちだと思うから。

最初、人の要求を丸呑みにしてしまうというのは、わたしの悪い癖だ。
でも、勢いに乗って始めたことは、仕方がないので、問題は先送りにして、その都度考えていけばいいとも思う。

今日は過食したい。自分で自分をなくしてしまいたい。わたしは人の気持ちを察して、それを自分の欲望と勘違いしやすい。
でも、それはわたしじゃないのだ。わたしがわたしでいるというのは、なんと難しいことなのだろう。


他人の人生は見世物か

他人の人生は見世物じゃない。

どんなに自分からかけ離れているように見えても、近づき方にはマナーがある。

動物園の動物を見るように、人を見てはいけない。
人には人生があって、その背景がある。その背景を知ることなしに「そんなことわたしにはできない」「耐えられない」というのは残酷だ。

わたしも自分の人生をケアマネに語ったところ「わたしなら耐えられない」と言われて、とても傷ついた。
すぐに抗議して、理解してもらった。だから、引きずってはいないし、彼女はいいひとだ。

「わたしなら耐えられない」という言葉は、人を刺す。
それは、分断だからだ。

「わたしには耐えられない」「でもこの人には耐えられる」というのは、他人の痛みに対して、「この人は痛みに強いのだろう」「我慢できる人だったのだろう」ということを言っている。

でも、痛みに耐えたくて耐えている人はいない。
耐えるしかないから、耐えるのだ。

それと同じように、たとえば、

t.co

t.co
勘違いブスで自信がある人に興味がある、って失礼だと思う。
誰だって、自信をもっていいんだから。

自分が顔のことで自信を持てないとしても、それは異常なことで、そう思わされる社会について考えるべきだ。
それなのに、「自信を持っている女の自意識に興味がある」という風に至るのは異常なことだ。
健全な人は健全な人だ。
自分がそうじゃないからと言って、自分から見てブスな人が自信があるからと言って、その人たちを貶めながら、研究(?)していい理由にはならない。
自分の内面と向き合うべきだ。

これは働いている人に対しての侮辱だ。
採用した人に対しての侮辱だ。面白半分で、突撃して、自分の「価値」に傷つきそうなことは避けるというのは。

人を観察するとき、観察する側は権力者になる。観察される側は異議申し立てができない。
観察する側と観察される側の、上下構造に敏感でない人は、物を書く資格がない。

それは、書いたものに責任が持てないから、というのもある。
他人事のように、ただ、面白い見世物があるところに、面白がって近づくことは、人を傷つける。

傷つけても書くべきことはたくさんあるだろう。
でも、傷つけたら、そのことについて、きちんと考えなければならない。
それが、人としての尊厳を守るということだ。

自分にはとてもできない、だから、尊敬する、という言葉は、単なる蔑視だ。
蔑視ありきで、観察して、文章を書いた結果が、観察された側を傷つけるのは当たり前だ。

考えても考えても、考えが足りず、傷つけてしまうことはある。わたしにもある。
でも、最初から、傷つけてもいい存在だと相手を考えるのは違う。

人は見世物じゃない。一人の人間だ。

追記

観察する側は、「神」の視点を持っているのか、持ちたいのかと思います。
西洋が、東洋に対するときの視点、それと同じものを再生産してはいけないと思います。
そのせいで、「劣った東洋の文化」を西洋化することになったり、もっというと、植民地支配やその土地のネイティブの大規模な誘拐につながった歴史を考えると、簡単に考えてはいけない問題です。


名前を奪われること、名前を付けること

DV加害者は名前を奪う。

名前を呼ばなくなる。名前というのは、自我や、アイデンティティのよりどころになるものなので、表面上よりもダメージが大きい。
名前を失った人にしかわからない痛みだから、人に話しても、わかってもらえないので、孤独を深めていく。

いろいろな方法で名前を奪うことができる。

結婚するとか、全く違う名前で呼ぶとか、「おい」としか言わなくなるとか。

(それでいうと、夫婦同姓の今の現状だと、女性は、国家によって、名前を奪われている。夫婦別姓を選ぶことができない状態は、国家から暴力を振るわれているのと同じだ。モラハラということ)

名前を呼ばれなくなると、自分が何者かわからなくなる。今まで築き上げてきた、小さな歴史が失われる。そして、精神の安定が奪われる。

自分が、人間ではなく、名前のある一人ではなく、ただの役割として存在しているのだということを突き付けられる。
役に立つときだけ生かしてもらえる存在だということを、知らされる。

DV加害者にとって、わたしたちは人間ではない。
人間として尊重されないとはそういうことだ。

たとえば、研究者が結婚すると、姓が変わり、今までの研究成果が引き継ぐことができず、全く別人の成果として扱われることを思い出してほしい。

名前を失うということは、自分の歴史をつなぐアイコンを失ったと同じことだ。

DVから逃げたときに、「あれはDVだったのか」と今度は名づけなおす作業が始まる。

自分の起きたことに、だんだん名前がついてくる。DVを受けているときには、情報から隔絶されているから、自分に起きたことが何だったのかわからない。

名づけていく途中に、怒りや、悲しみ、悲しみとも名づけられない、「わたしは多くのものを失ってきたのだ。そして、その時間は二度と帰らないのだ」という強い喪失感によるショックを感じていかないといけない。そこからは逃れられない。逃れたいのに。

怒り、悲しみを繰り返して、過去を振り返るのは無駄だと知っていても、生活に組み込まれた小さなおびえる癖は、なかなか抜けない。
そのことを目の当たりにするたびに、どうしようもなく、大きな尊厳というようなものを失われたのだと実感していく。
その作業はきついものだ。

逃げたから、もう、明日を向いて前向きに、というのは、夢物語だ。

奪われたものを、自分の中で取り戻す作業が必要だ。
奪われなかったら、しなくてもよかった作業なのに、と思うと虚しさがこみ上げる。
相手に、奪われたものを返せということの無為さもわかっているから、ただただ自分との戦いになる。

そうして、整理が始まっていく。わたしたちは、名前を取り戻し、名づけていくのだ。
そして、人生を取り戻すのだ。失われたものは帰らないとどれだけ嘆いても足りない。嘆くことはやめる必要もない。
ごちゃごちゃした、怒りと悲しみと、解放された喜びと、喜びを感じてもいいのかという、許可を求める奴隷根性がしみついてしまっている悲しさを抱えて、ただ、時間をやり過ごすのだ。
誰にわかってもらえなくても。

ただ、自分の足で生きていくことさえできれば。失われたものを取り返すことはできない。その悲しみはどうしようもないけれど。
これからを生きればいいという言葉が、どれだけ虚しく感じるか。

わたしたちは、だから、語ることをあきらめていく。
でも、わたしたちは、名前を付けることができる。
そして、何が起きたのか、知ることができる。
人に伝えることができる。

これからを生きられなくても。今、生きていたい。

c71.hatenablog.com


紺を紹介してもらいました。

yuichikawa.hatenablog.com
id:calibaby さんに、紺を紹介してもらいました。

これです。

紺

DV被害者が、自分の足で立つまでの小説なのです。
とてもいい紹介をしてもらって、感激しています。

、嵐が過ぎ去った後の、女性たちの日常が描かれています。暴力の残滓が、確かにそこにまだ感じられるなか、ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めていく登場人物たちの姿。

すごく良い要約をしていただきました。
ありがとうございます。

最後のエッセイについても、

人によって、書く理由はそれぞれでしょう。しかし、このエッセイを読んで、こんなに美しく暖かな「書く理由」があるのだ!と思いました。

あえてここに、引用はしません。

一人ひとり、読んで、発見してほしいと思います。

こんな風に言っていただいて、とてもうれしいです。


白黒思考の自閉症の人が肯定感を得るには

わたしは以前、白黒思考でした。

それは、自閉症のせいもあるかと思いますが、失敗することを自分に対して許せなかったのです。

それは、怖いからでした。

自分が失敗すると、それだけで、自分はすべてだめで、生きている価値もなく、生きていて申し訳ないという気持ちになりました。
だから、ものごとを決断したり、自分だけで判断することが極度に怖かったのです。

自分が完ぺき主義だと思ったことはありませんでした。
自分のことを粗雑な人間だと思っていたので。

失敗すると、「不正解だった」と自分を強く責めた気がします。
リカバリーの方法を考えればいい、Aがだめなら、Bをしてみよう、と思えるようになったのは、徐々に自分だけの暮らしで自信をつけてきたからです。

怒られなくなったのも大きいと思います。

親から離れてしばらく、買い物をしようとすると、100均でさえ、失敗したらどうしようと、冷や汗が出ました。
どうやって、買い物すればいいのかわからない、というのは、「正解」がわからないということだったと思います。
その正解は、親が決めていることだったので、自分では「自分にとっての正解」がわからなくなっていたのでした。
それで、親に責められると「また失敗してしまった」という気持ちが大きくなったのです。

失敗か、成功かを自分で決めることが普通なのだ、と腑に落ちるためには時間が必要でした。

私の場合、肯定感を得るには、失敗しても何も言われない状況で、いろいろなことをチャレンジして、実際に失敗しても「なんてことなかった」と思えることでした。

物を壊しても、直したらいいし、買いなおしてもいい、ということがわかってから、だいぶ楽になりました。
それをできる環境になったのは、仕事をして、自分のお金で、試行錯誤ができるようになったからだと思います。経済的自立ができていないと、失敗が自分だけのことで済まなくなるので、恐怖が大きかったです。

特に、母に「また、そんなもの買って」「また、そんなことして」「最初からわかってた」「だから言ったのに」と言われ続けている間には、失敗が怖かった。

失敗を責める人がいない状況で、だんだん回復してきたと思います。

本を読んで、中間で良いことを知ったり、ネットで、失敗する人の話を読んでみて、「失敗しても大丈夫だ」とだんだん思えるようになりました。


DV、モラハラから逃げられないのは、あなたのせいじゃない

逃げればよかったのに、逃げなかったのは、そこにいたかったからに違いない。
縛られていたわけじゃないし、ということは、わたしも言われたことがある。
モラハラ、DV、軟禁からにげられないのは、逃げるアクションに至るまでの「思考」「価値観」「培った常識」「頼る相手の想像」を奪われるからです。
とくに、連絡する相手、相談する相手がいないと、支配者が「すべての価値観を担う人」となるので、自分の思い付きは常に却下されてしまい、それが浸透すると、自分の判断で逃げるということが難しくなります。

嵐の渦中にいる時には、「今が異常な事態」ということをあんまり考えられない。
なぜならば、考えたとたんに、報復が来るからです。

常に、苦痛を与えられているはずなのに、自分が悪いと洗脳されていると、逃げるという発想が出ません。

思考能力を奪われているはずなので、自分の痛みに鈍感になることで生き延びる処世術が身につく。

だから、暴力、監禁から逃れるのは難しいです。

モラハラは、支配のためのコントロールなので、生かさず殺さず、巧妙にしてきます。
暴力をふるったあと、「反省した」「悪かった」「二度としない」と言われると、混乱して、「逃げられない」という風になります。

逃げてはいけない、ということを、最初に教え込まれます。

「お前は何もできない」ということを常に、いろいろな方法で、伝えてくるので、主体性を奪われます。

逃げるということは、主体性の発露なので、主体性を奪われていたら、逃げることができません。

世界に対する恐怖を教え込まれていると、家の中の危険よりも外が怖くなって、出られなくなります。
なぜなら、自分は無価値だから。そういう風に思考が変わります。

だから、暴力を受けると、一番ダメージを受けるのは、恐怖もそうですが、結局のところ「自分は大事な人間だ」という自己肯定感です。

「わたしさえ、犠牲になれば、丸く収まる。これ以上悪いことは起きないに違いない」と刹那的な思考しかできなくなります。それは、絶えずやってくる不機嫌や、脅しで、感情は安定しなくなります。そのせいで、嵐をやり過ごすことしかできなくなるのです。

逃げるべきだ、という発想が生まれるまでには、他人の「それはおかしい」というエンパワーメントが必要です。

物理的に逃げられる状況だとしても、逃げられないのは、心理的な「自分はダメだから、せめて、今生き延びよう」という思考です。
それは、思考停止ではなく、思考をできないように、周りの状況から隔絶する、搾取者の策略の結果なのです。

c71.hatenablog.com


もうやだああ

最近忙しいし寒いし暑いし意味わかんないし。

コンビニやめたからだいぶ楽になったけど今年はがつがつ働くのやめようかなとか思う。

今月はいろんなことがあった。
なんつーか、まあいいんだけど、ちょっと意味わからないので、頭がまとまんない。