今日は同人誌の集まりで、平均年齢七十オーバーな集まりにいって、十人の老人に囲まれてきました。
疲れたけど、いやじゃない?かな、って思いました。
具合が悪くておとといから寝たきりだったから、会合に出た後、体調不良になるつもりで、実際なったけど、あれ、でも、意外と頭痛とか楽になっているなあと思った。
肉体の動きを伴う自己表現(喋る、ということも含む)が不得手だし、外部からの刺激や情報の受容もたくさんはできないし、それに気づいてからは自分と自分の触れることのできる世界の限界をわりと意識するようになった
— 藍沢◆妹だいすきおばさん (@i_zawa) 2015, 1月 13
こういう風にだんだん、何をしゃべったら大丈夫で、何をしゃべったらダメなのか心配になったけれど、老人たちは耳が遠いからいろいろなことを気にしなかった。
失礼ですけど、と言われて身構えたけれど、長女ですか?と聞かれたくらいで、みんな立ち入った話はしなくて、文章の話だけをひたすらにしていた。
生きているといろいろなことがあるから、そのときにしか書けないものもあるし、それを書き終わったら、新しく書きたいものが出てくる、それが、生きることの素晴らしさだ、と言っている人がいて、とても良いなあと思った。
長く書いていると雷に打たれたように、人から評価を受けることもないわけじゃないから、とにかく、若いし、頑張って書いてくださいと言われました。
わたしのことを養女にしたい、と言って、家に招待したいと言ってくれた人もいらっしゃって、茶の湯に興味ないかと誘ってくれたのに、「お金ないんで」と断ってしまって悪かったなあと思った。わたしはキャパオーバーが出てしまった。でも、そのあと、「お金ない方が頑張れるからお金ない方が良いのよ、一生懸命楽しもうとするから。お金は薬にもなるけど毒にもなるから、芸の厚みが増すから良かったら挑戦してみて」と言われたので、嬉しかったです。
わたしは悪い個性を持っていて、そのせいで人に嫌われる。
悲しいしつらいし、そもそも体調が常に悪い、ということはとても苦しい。
それも努力不足だと見なされるし、最近は思わないけれど、自分でもそう思ってしまったこともある。
だけど、今日会った人たちは、わたしの悪い個性に気づかなかった。
気づいたとしても、見逃してくれた。
だから、悪い個性を見せてしまったとしても、それを苦にしない、集団を探して選ぶのは大切なことだと思った。
世の中には意地悪な老人もいるのだけど、今日会った老人たちはみな一様に優しかった。
みんな体に不自由があるはずなのに、そんな愚痴もこぼさず、したいことをしてキラキラしていた。いつもは、つらいこともあるのかもしれないけれど、今日の会合はみんなの「華」の部分をそれぞれ寄せ合った日なんだと思う。
そして、わたしの不具合については、何も気づかず、気づいたとしても「若いって良いねえ」と心からニコニコしてくれていた。死ぬ前にやりたいことやらなきゃ、と言って、七十後半の男性が、七十前半の人を励ましていて良いなあと思った。やりたいことがあるなら七十前半にやっておくと良いよ!と言われていた。死に支度を始めたから、と言って、本をくれた人もいた。
飛行機に乗るのが怖い、死ぬのが怖い、と言う人も、「まだ片付いていないから死ぬのが怖い」と言っていた。そういう年かあと思い、自分の身辺整理をすることを考えていて、こういう会合にも出て来て、自分でできることは何でもするし、身ぎれいにしているし、わたしにも優しいし、みんな素晴らしいなと思った。
わたしには悪い個性がある。
体調は始終悪いし、機嫌も不安定だ。空気も読めないし無作法な面もある。
老人たちと似た特徴を持っている。
今日会った老人たちは寛容だった。
それでも、消耗した。
人の表情を見たり、声の調子や、話し方や、何を言っているのか解析するのはたいへんだった。
それでも、きりきりと緊張して生きなくても、わたしを受容してくれるところは、探せばあるのだなあと思った。
会費が高くて痛手だけど、もう少し続けようと思う。
小学生のとき何かで男子にからかわれて、腹が立って抗議したんだけど、必死になればなるほど相手は茶化してくるんだよね。そうなると何をしたって無駄で、最終的に私は相手の男子をぶっ叩き「瀬尾がぶったー!!」って先生に言いつけられ怒られた。言葉の無効化、無力化を重ねられた先に暴力があった。
— 瀬尾はやみ (@hayamiseo) 2015, 1月 14
わたしは小学生のときに、鉛筆を削る小刀を持って男の子を追いかけ回した。
筆箱を盗られて、パスされて、ランドセルを踏みまくられたからだ。
でも、先生はわたしの方が、悪いと言った。
わたしはからかわれ、何を言っても口まねされ、言い返され、多勢に無勢だった。
でも、そのことは斟酌されなかった。悲しかった。
わたしは殴るしかなかった。
でも、その後言葉に対して、わたしは執着して、言葉を磨くようになった。
猿のような小学生男性には通じなくても、通じて、味方になってくれる人はいるのだ。
そのことに気づいたときに、言葉は武器になると思った。
共通の話題を持っていて、年齢が違う人と会うのは面白いのかもしれない。
まだまだ予断は許さないけれど、気をつけて関わっていきたい。