好きの反対は無関心ではなく、嫌い

嫌いな人がいます。

嫌いな人のことが気になります。ああ、いやだいやだ、と思いながら気になります。

好きの反対は無関心、って言うけれど、わたしはどう考えても、無関心にはなれない。嫌いなもんは嫌いだ。

だけど、同時に嫌いなものに対して時間を使うのもいやだなーと思います。

かといって、無理に、「嫌いなのはやめよう、気にしないようにしよう」と思っても難しいです。

だから、嫌いだ!むかつく!憎い!と思い出し怒りが湧いて来たときには、嫌いだなあ、ああ、嫌い、嫌いなんだなあ、と思うだけにしたいと思います。

ここが嫌い、ここが気に入らない、と具体的に考えたり、正当化しようとすると無駄なエネルギーがかかるので、ただただ、生理的に嫌いなのだ、という気持ちを大事にしたいと思います。

反射的に嫌い、不愉快、って思うのは仕方がないです。
他の人にまだ引きずっているのか、って言われるのも、そうですね、って感じだけど、わたしはわたしのペースで気に入らないし、腹が立つし、嫌いです。

優しくなんてできないし、無関心にもなりません。失礼なことをされたらいつまでも覚えていてしまいます。一回言われたいやな言葉がいつまでも頭に残ります。忘れよう忘れようとすればするほど忘れられなくなる仕組みです。

人間が育つとき、いやな思いとかつらい思いをしないで育つのは無理なんだと思います。

それを減らそうとするのはおかしいと思います。あえてつらい思いをする必要はないですが、それを避けるのも変な話です。避ければ避けるほど、大きな問題になると思います。避けずに、受け止めたほうが、結果がいい気がしています。

現実の世界では、嫌いな人との付き合い方で悩んでいる人はたくさんいるのに、ネットだと、見なければ良いと済ませられる人が多くて驚いています。本当は、きっとこっそり何度も見てるんじゃないかなあ、それはわたしだけなんだろうか?と疑問に思います。
他の人だって、本当は嫌いなものをずっとみてイライラしてるんじゃないの、そういう経験はきっとあるはずだ、と疑っています。

元気がないのに、怒りが湧くと元気な風になるときがあります。カフェインを飲む代わりに、わたしは腹が立つものをわざわざ探してしまうことがあります。それは無意識にすることもあります。それで、怒って、活発になって、自分を刺激して、目を覚まさせている、ということをしている気がします。

わたしが嫌いな人は、句読点の打ち方や、wwの使い方がいやな感じの人です。見た感じでぞうっとします。自意識がこう、立ち上ってくるようです。わたしは賢いのだ、そう思いなさい、と伝わってくるような句読点が嫌いです。そういう人はだいたい内容も気に入りません。
内容も、わたしに興味がある分野に近いことを書いている人で、なおかつ、主張が少しずつ違っている、と言う人に関してイライラます。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください