(ここのエントリでは、娼婦、という言葉を使っています。それは、他の言葉が思いつかなかったからです。セックスワーカー、という意味ではなくて、違う意味なんですが、うまく説明できてません。世間一般で言う、悪い女、という意味で使いたかったのですが、適切な言葉が思いつきませんでした。すみません。娼婦もセックスワーカーも悪い、とか、良い、とか考えていません。いやな思いをさせそうで心配ですが、わたしの力量が足りません)
女は、娼婦と聖女に分断されている。一人一人を、分断する考えがある。そうして、管理しようとしている。
この女はふしだらだ、だからこの女には何をしても良い、この女は、清純であることを望む、というように。
そして、女は恐れる。
娼婦と見なされないようにしなくては。
何をされるかわからない、と。
恐怖に支配される。
後ろ指を指されないように生きなくては、と思う。
その世界は息苦しい。
人が、自分で、どんな風に生きるのかは、自分で決めるべきだ。
自分の人生だから。
なのに、それをさせない力がある。それが、分断させる考え方だ。
男は分断されていない。分断する側だ。
生身の女は、生きているから、一生聖女でいられることもないし、一生娼婦でいられることもない。
だから、その精神は、引き裂かれる。ひとりの女の内部が、聖女と娼婦に引き裂かれる。本当の自分はこうじゃないのに、と思う心を深く沈める。
性欲のある女がいる。性欲のない女もいる。同時に何人も愛する女がいる。誰のことも愛さない女もいる。
娼婦と聖女に分ける考え方で、生身の女を分けることは不可能だ。
不可能なのにそれをするということは、女を纏足にするということだ。
わたしの中には、清純な部分と、素朴な部分と、性欲に忠実な部分が同居している。
インモラルな部分と、モラルを大切にする部分が共存している。
それは、わたしを引きさかない。
引き裂くのは、わたしにこうあるべき、と望む周囲の圧力だ。
わたしは、その周囲の圧力になっているということを指摘されて、恥ずかしいと思った。わたしはそれを忌避していたのに、わたし自身が、引き裂く圧力となっていたのだ。
例えばの話を書く。
わたしはだらしない。
だから、だらしない人の味方だ、と思っていた。
だけど、そういう風に考えるのは良くなかった。
だらしない人の味方であると思うこと。じゃあ、きちんとした人に対しては、どうなのか、という問題が発生する。わたしは、人に対して、そもそも、だらしないとかきちんとしているとか、そういう視線を投げ掛けること自体慎むべきだった。
セックスワーカー以外の人に対してしないことは、セックスワーカーにしてもいけないのだった。
不公平だから。
わたしのとるべき態度は、人を分け隔てしない態度だ。
人が生きるためにしている行動をそのまま、受け入れることだ。わたしにとって、好ましいか、好ましいかは関係がない。わたしのために、人が生きているわけじゃないのだから。世界をそのまま飲み込むのだ。
わたしはだらしなかろうときちんとしていようと、関係なく、そのまま受け入れる姿勢でいるべきだった。
だらしない人ときちんとした人とで、態度を変えることは、人を分断させる考え方だ、と指摘されて、その通りだ、恥ずかしい、と思った。
女は、聖女と娼婦に分断される。男は分断されない。女は分断される。
男には権力がある。世界を設計する立場にある。女はカスタマイズされる。
男はカスタマイズされない。もてなされている。
女はもてなしの一形態として、聖女か、奔放な女を選ぶ。
どちらも自然な姿ではない。
分断される女は、生身だ。だから、はっきり、聖女にも娼婦にも分けられない。
わたしの中にはふしだらだと断罪されるだろう内面もあるし、潔癖な面もある。それを分けようとしたら分裂してしまう。苦しい事態だ。
だから、聖女なのか、娼婦なのか、分断すること自体が、人を苦しめることなのだ。
ひとりの女を、聖女だと規定するのは男にとっても、社会にとっても、当の女にとっても都合がいい。座りが良い。安定する。非難されない。女という存在を管理することができる。所有物のように。
財産のように。
富と交換するための、象徴。
分断されると、女は自由でなくなる。清楚な女ではないと見られれば、攻撃されるからだ。
分断は、女の行動を規定する。互いを監視する。好きなように振る舞えなくなる。だれかの、架空のまなざしによって、女は常に裁かれる。その裁きの目を自分自身に育ててしまう。いつも、自分で自分を裁くことも起きる。人を裁くことが通常化するから、人から、裁かれることを過度に恐れてしまう。自分らしく生きられなくなる。そして、心が窒息する。本当は、人から裁かれても自由に生きられれば良いのだけれど。
女を聖女と娼婦に分けるのは、それで心が安定する人がいるからだ。しかし、分けられた方はたまったものじゃない。もともとの性質をねじ曲げられることだからだ。それなのに、そんなことを強制できるのは、それは、人ごとだからだ。人の痛みを真摯に考えるならば、そんなことはできないはずだ。強制しているのに、さも、自主性に任せている、という顔をする人は多くて、いや、そんな顔さえしなくて、無関係さを装っている。女が自分で自縄自縛になっているとでも言いたげな人はいる。そんな女を愚かだと言う人すらいる。とても卑怯だと感じる。
恥ずかしいことだけれど、わたしは分断に加担した。
きちんとした人、きちんとしていない人、後ろ指を指される人、指されない人、誇りを持って働いている人、忸怩たる思いを抱えながら働いている人、事情がある人、ないひとを分けていた。そういう部分があった。
そんなつもりではなかったけれど。してしまった。
誇り高く生きていても、忸怩たる思いを抱えながら生きている人でも、だらしなく生きている人でも、同じように尊い。尊い、というのは、命だから、差を付けられない、ということだ。
個人的に付き合うのならば、こういう人が良い、というのは当然わたしにもある。だけど、命の優劣を付けるのは絶対に許されない。
労働について、その人がどういう立ち位置でいるのか、なぜ、その職業を選んだのか、その職業の貴賎を裁き、選んだこと自体を責め、内面を詮索することは、命に対して優劣を付けることと同じことだ。人は生きるために、お金のために、働くのだから。
職業に対して、どんな態度でいるかどうか、ジャッジすること、この態度で向かっているのならば、その職業に就くことを許可する、という気持ちを外に出すのは、人を傷つけることだ。
わたしにはそういう視点があった。わたしの中に内面化されていた価値観があった。わたしは恥ずかしい。改めたい。教えてくれた人には感謝したい。
例えば、セックスワークをしている人に対して、聖女のようだ、と言う人がいる。聖女と言っても、娼婦と言っても、生身の人間扱いしていないことでは同じだ。尊敬で見ても、軽蔑で見ても、それは裏表で、人間扱いしていない、という意味では同じだ。
この問題は、セックスワーカーに限った問題じゃない。
女が働くとき、どんな職業でも、聖女なのか、娼婦なのか、というジャッジはされる。
その上で、周囲は態度を変える。聖女を期待され、娼婦の態度を求められる。
貞淑な女、貞操観念のある女、ふしだらではない女、セックスに対して臆病な女、は良いとされていて、奔放な女、は軽んじられる。何をしても良いと思われ、加害をされる。迫害をされる。
奔放な女を利用したいと願っている立場もある。奔放な女は忌避され、欲望される。
奔放な女は自分のために生きているのに、それさえ、外部から規定されてしまうのだ。
その矛盾は苦しい。
ひとりの女の中にはいろんな人格がいる。貞淑で過ごせる時期もあるだろう。そうでないときもあるだろう。でも、その人は、ずっとその人で、全然変わりがない。その人の価値も変わらない。生きているから、人格は変動する。欲望も変動する。抑制も変動する。
セックスワーカーが、きちんとしているかどうか、きちんとしていないかどうか、事情があって働いているのかどうか、誇りを持って働いているのかどうか、そのことには関心を持つべきじゃない。そのことで、態度を変えるべきじゃない。その人が、自分で働きやすい考え方を持てたのは、とても素晴らしいし、尊敬するべきことだ。尊重するべきことだ。だからといって、そうじゃない人のことを悪くいう理由にも、どちらかに肩入れする理由にもならない。
なぜならば、他の職業に就いている人に対して、きちんとしているか、きちんとしてないのか、事情があって働いてるのかどうか、誇りを持って働いているのかどうかは、問題にされないからだ。
このことを指摘してもらって、わたしは助かった。
わたしは、だらしない。だから、だらしない人の味方でいたいと思っていた。だから、肩入れした。それは、わたしの勝手な欲望だ。だけど、それを人に強制するのは間違いだ。それは裁くことで、わたしの主旨に反している。わたしの主旨は、フラットに考えることだ。人を裁かないでいたいという願いがある。
だから、わたしはそれをやめたい。
良い風俗嬢、悪い風俗嬢、を分けること。
貞淑な女、奔放な女、を分けること。
例えば、良い風俗嬢の中には聖女のような女がいるという台詞を吐くこと。きっと理由があって、働かざるを得ないのだろうと、思うこと。
そう思うこと自体が、迷惑をかけることになる。女は女だ。人間だ。良いところも悪いところもある。
理由がなくても、誇りがなくても、適性がなくても、人は働く。
セックスワーカーだって同じだ。当たり前だった。それに気づかなかった。無意識は怖い。
わたしはお金のために働く。理由がなくても、誇りがあってもなくても。やりがいがあれば、働きやすいし、楽しい。でも、やりがいがなくても、働く。お金がほしいからだ。わたしはお金が好きだ。お金は自分の自由と尊厳を保障する。だから、働くことが好きだ。
他の職業についてなら、当たり前に飲み込めることなのに、セックスワーカーについては、わたしはよけいなことを考えてしまいがちだ。
当たり前だけれど、セックスワークをする人が、その仕事を選んだとき、理由がなくても、理由があっても、誇りがあっても、誇りがなくても、嫌々でも、楽しんでいても、わたしには関係がない。わたしは自分に関係がないことで、セックスワーカーに対する視線を変えていた。指摘されて気がついた。恥ずかしかった。
お金のために働くこと。シンプルに考えればそれだけなのだ。
職業に貴賤はない。それがルールだ。
それだけの話だ。
きちんとした人であろうとだらしない人であろうと、生きるためにお金を稼ぐ。そこには優劣がない。誰も裁けない。
だれかがどの職業を選んだとしても、非難できる人はいない。
職業選択の自由が保障されているからだ。
それがルールだ。
わたしは女を聖女と娼婦とに分けようとする視線によって、女が分断されることをいやだと思っている。なのに、心の中に、内面化された、分断させる価値観が潜んでいた。
セックスワーカー以外の仕事についてだったら、働いている人が、きちんとしていようが、そうでなかろうが、気にしないのに、セックスワーカーに対しては、動揺してしまって、その姿勢が保てなくなる。
どうしてなんだろう?
セックスワークには、わたしを動揺させる部分がある。
働くこと、お金を稼ぐこと、自分が女であること。
裁かれること、裁くこと。期待される貞淑な女のイメージを壊さないでいること。奔放でいること。そうでないこと。両立すること。自由になること。
わたしはそれをやっつけたい。だから、セックスワークについて、考えているんだなと思う。
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