セックスワークを語るときの困難さに触れることで、ことの本質に迫れる

本当に大事なことは、ものごとを単純に見ること。

セックスワークを語るとき、言葉が強くなり過ぎ、力み過ぎ、大げさに言いすぎてしまう。
また、身を削ってぼろぼろになってしまう。
セックスワーカーの内心を推し量ってしまう。

どうして、素直に語れないのか。
わたしは身を削ってぼろぼろになったのか。

そこに、セックスワークにまつわる周囲の問題、本質が隠れている。

わたしは塾で働くとき、どうせ来たなら、最善を尽くしたいと思って、働いています。
できることはするけれど、できない能力以上のことはできないと思って働いています。

だから、それと同じじゃないかなと思っていたのだけど、それだって、人によるよね、という当たり前のことが書いているときには気づかなかった。

それがこの記事の問題ってわけ。

セックスワークについて、考えるときに、感情労働について考えざるを得ない。

「おかあさん的感情労働」ということ。
承認欲求やわがまま、自分だけ特別扱いしてほしいと願う気持ち、そして、それを受け入れることが当たり前だと思っていて、相手にそれを要求しても、相手に負担が一切かからないと信じていること。相手に負担が生じるか、考えの外にあって、要求が当然だと思っていること。無邪気でいる特権があること。

それが「おかあさん的感情労働」を人が望むと言うことだと思うのだけど。
セックスしたい、という欲求は巣立ちのパワーだと思う。それを巣立ちにつかわないで、それを処理してもらう相手に「おかあさん」を望むのはたいへんグロテスクな気がしている。

もちろん、サービスはサービスだと完結してサービスを受けている方も多いと思う。
だけど、セックスワーカーにおかあさんに望むような包容力を望んでいる人はかなり多いと見た。
それがなぜ直感できたかというと、わたしがセックスワークについて語るとき、重く、きつい、追いつめられた気分になるから。追いつめられ、ぼろぼろになって、身を削る気分になるから。

セックスワーカーの重みを少し分けてもらったと考えると、この重みがどこから来たのだろうと思いを馳せる。

わたしが女であることと無関係じゃないはずだ。
女であるわたしがセックスワークについて語るとき、過去の性的搾取のことを連想する。
セックスワークは、セックスワークであって、性的に搾取されることと無関係に、性的サービスを売っているのだと理屈ではわかっているのだけど、性的サービスを売るときには、性的搾取をしたがる人と、いくらかは関わらざるを得ない、そんな確率で働いていることが想像できる。

性的搾取をされると、こころが削れる。
コスパ、特別扱い、得したいというきもちを持つ人は、搾取をする。
性的労働の場で、それが起きたとしたら、それは性的搾取になる。性的搾取が起きたとき、心の中には嵐が起きる。お金で取引すると決めている以上のものが奪われたときに、誰がどうやって補填するのかと言うと、セックスワーカーが自分で自分を回復させるしかないのだ、ということに思い至る。
わたしが性的搾取をされていたとき、それが日常だったとき、そのことを思い出すととても削れる。
セックスワークを生業にしている人は、それがさらにもっと日常的に起きていて、しかも、そこから逃れることが困難なのではないかと思われる。

それを避けるための技術を磨いて、自分を守っているかもしれないけれど、それは本来の業務とは違う技術だ。本来の業務は性的サービスを行うこと。自分の尊厳を守るための技術、を磨かないと行けない現場、というのはそれだけでたいへんなことだ。

おかあさん的な配慮を求めながら、性行為を行う男たちに、わたしはグロテスクさを感じる。
それは近親相姦じゃないのか。

なんのゆかりもない女の体を借りて、本当にしたいことの代わりにすること。おかあさんとセックスしたいこと。それを誤摩化すためのセックスワーカーの体の利用。
それがあり得ると言うこと。

そのことがわたしの気持ちを重くさせる。

過去、わたしはそういうことをされたことがある。そのときには、何が起きているのかわからなかった。男は、わたしに「母なるもの」を求めた。わたしはそれを拒否したが、拒否することが信じられない、という顔をされた。拒否を認識しない、なかったことにする、という対応。わたしはそれに脱力して、脱力しすぎて、言いなりになってしまったのだけど。

その経験があるから、セックスワークを利用する人々のすべてとはもちろん思っていないけれど、一部にはそれと同じことを、お金を払っていると言うことを免罪符にして、もっとえげつなくしている人がいると思っている。


このエントリで書いたように、女に対して、セックスワーカーに、聖なるものと俗なるものを同時に求めて、聖女であること、娼婦であることを同時に両立させることを当たり前だと思って、考えすらしないこと、そういう事態がある。そのこと自体に性的興奮を覚える人がいる。確かにいる。

それは、おかあさんと一体になることを望んでいて、おかあさんをけがすことと、おかあさんを尊敬しているから、何もかも甘えてそれを受け入れる力がおかあさんにはあると信じている、って状態だと思う。
その矛盾に気がついていることが、背徳観を呼んで、背徳観が性的興奮をより強めるのだと思う。

女を自分のおかあさんだと間違える人は多くいる。
中学生に教師が、「おかあさんみたいだね」と言った、という事例を数日前に聞いている。
それを褒め言葉だと思っていて、子どもにすら、おかあさん性を求めてしまう男が存在すると言うこと。

セックスワークを語るとき、わたしはそのことを思う。向き合う。そして、疲れてぼろぼろになる。
わたしはおかあさんを求められたくなかった、と過去のわたしが泣き叫ぶ。そのせいで疲れる。
わたしはそれをセックスワーカーに投影して、たいへんでしょう、つらいでしょうと言いたくなる。しかし、それは彼女たちには無関係なことだから、ぐっと堪える。それは、わたしの体験であって、彼女たちの体験ではないから。だから堪える。堪えるけれども、堪えることがストレスになる。
わたしはそんなに外れたことを思っていないと言う確信があるから、そのことを言いたい。言いたいけれど、セックスワーカーの体験と、わたしの体験は別のものだから。

セックスワークを語るとき、自分の体験を材料にして探る作業が必要だ。そのときに、過去のことを思い出し、そのときの気持ちを生々しく思い出す。
そうしたとき、セックスワーカーに、その気持ちを投影するのは実に簡単なことだ。そうしたくなる。その一方で、自分に起きたこと、そのときの気持ちを投影することは避けないといけない、という理性もある。その狭間で揺れるから、セックスワークは普通の仕事だ、という意識を持つのが難しくなる。だって、わたしはセックスのときにあんなにつらかった、だから、セックスワークが普通に行える仕事だと思えない、男は怖いもので、それと毎日裸で向き合うことが、できるなんて、異常なことだと、セックスワーカーはつらいに違いない、だって、わたしがつらかったのだから、男は怖いのだから、その男たちはセックスワーカーにひどいことをしているに違いない、と心が勝手に叫んでしまう。

そうではないのだよ、良いひともいて悪い人もいるはずだよ、と、理性でなだめる。その繰り返し。だから、わたしはセックスワークを語るとき、過去の自分と対話しながら語り、過去の自分と、セックスワーカーに自分を投影させたくなる気持ちを分離させる作業をするから、疲れるのだろう。

セックスワーカーとわたしは別の人間だ。だけど、わたしは無意識に同一視してしまう。
それは、セックスワーカーにおかあさん的な感情労働を求める男と同じ行動をしている。
そんなわたしを嫌悪するわたしもいる。

セックスワーカーのことを考えるとき、気持ちがとても忙しい。
セックスワーカーとわたしが別の人間であること。それを理解すること。そのことがとても難しい。
それは利用者にとっても難しいと思う。自分の延長だと感じてしまう気持ちが、わかる。わたしも、自分の延長のように、セックスワーカーを思ってしまうから。過去起きたことを投影して、セックスワーカーはこう考えているんじゃないかとか、わたしだったらこうする、とか、よけいなことを考えてしまうから。
わたしの推測では、利用者は、自分の欲望を同じようにセックスワーカーも感じているのではないのかと、思うことが気持ちよくて、自分の延長だと人のことを思えば思うほど気持ちよくなる仕組みが、人間にはあるから、お金を払っているという免罪符が、たがを外してしまうんじゃないか、と思う。
他人と自分の区別がつかなくなるのは、日常でも良くある。セックスのとき、自分と他人の区別がつかなくなることが、わたしにはある。一体になっている気がするし、自分が望んでいることを相手も望んでいると思う、ファンタジーを必要とするから。
もし、そうではなかったら…と発想する余地がないほど思い込んでいるから。発想したら、幻想が崩れてセックスできなくなるのではないかと言う恐怖すらある。

だから、セックスワークについて語ることは難しい。
自分の過去、セックス観、混乱した、他人と自分との区別の問題が、浮上して来て、それをさらけ出すことが必要な作業だから難しい。
セックスワークが、ただの労働だ、と言うことが、理解できる一方で、業務内容が、自分にとって身近で、トラウマの原因だと言うことが、セックスワーカーへの理解を阻む。
セックスと暴力は切っても切れない関係にある。そう思っているわたしがいる。
セックスと欲望、幻想、それがセックスワークを取り巻いている。
語ることの困難さが、セックスワークに関する、大切なことの目印になっていると思う。

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