会社の先輩とランチをしてごちそうしてもらいました。
おいしかったです。
そのときに、肌のシミのことを話しました。
わたしの肌には、アトピーの跡があるのです。
心ない人は、会うたびにほくろが増えるね、とか、それ消えないの、とか言ってきましたが、すべて縁を切りました。縁を切った、というと、冷たいと言う人が出ますが、冷たいのはそういうことを言う人です。縁をすっぱり切れるわたしでよかったです。わたしは自分のそういうところが大好きだし、とても良い部分だと思っています。
合わない人とずるずる付き合いを続けることは、生理的にできません。それを強さだと言われて、困惑したときもありますが、強いのだろうが弱さ故なのだろうが、とても便利な能力なので、縁を切る能力があって良かったと思っています。(こういうことを言うと怯えられることもありますが、すべては縁です。世間を狭くすると言うひともいますが、わたしには狭くて十分です)
炎症がもとで起きたシミは綺麗になることがあるそうです。血行を良くしていたら、メラニンを分解するスピードが上がるのでそういうことも起きるそう。すっかり目立たなくなりました。
顔のえらの周りや、唇、首に、あったシミはすっかり薄くなりました。一番良かったのは毎日野菜ジュースを飲んだことじゃないかな…、わかりませんけれども。あと転職して日に当たらない仕事に就いたことも良かったかな、と思います。ストレスが減ったことも大きいと思います。シミが減ったのはここ二年のことです。実母と縁を切ってからです。
生まれつきのシミも腕にびっしりとあります。遺伝らしいけれど、はっきりしたことはわからないはず、と思っているし、日焼け止めをこまめに塗ることで薄くなるんじゃないかと思っています。
お医者さんによると、わたしのシミは人の注意を引かないシミだと言うことらしいです。
大きさがランダムだから、病気っぽくないからとのことです。
人は、反射的に伝染しそうなものに脅威を感じるから、それに注目しやすいのだそうです。
以前はシミを消す方法をネットで毎晩検索していた頃もありました。見ず知らずの人にどうしたの、それ?と聞かれることもありました。
でも、それは聞く人の方が失礼だということがわかりました。見ず知らずの人が無神経に自分の好奇心を満たすために聞くことは根本的に違います。
病気の人は自分の病気に詳しいです。だから、見ず知らずの人の助言は、知っているか、間違っていることを言っているかどうかです。治らない病気と言うのは山ほどあるから、新聞広告にアガリクスの記事が絶えないわけです。効くならがんもアレルギーも根絶してるわ。
あれが効くらしいよ、ということを言う人はだいたいだまされている人です。だまされていることに気づかず、人に忠告した気でいる上、しつこいので迷惑です。
わたしはといえば、カメラマンに「シミは風合いだ」と言われてから、気にしなくなりました。トップモデルはシミがたくさんあるけれど、それは風合いで、そういう人ほど値段が高いモデルだよ、とのことです。
意地悪な人はシミを見るけれど、普通の人はわたし自身を見ます。そのリトマス試験紙になることがわかりました。よく見ればハリウッドスターも一流モデルもシミばかりです。でも、彼女らも彼らも美しい。
シミもないモデルがもてはやされるのは日本です。日本では瑕疵のないことが尊ばれるから、無垢な白い肌が喜ばれます。透明な、透き通るような。傷のない、白い肌。
でも、白い肌を保つために、いろいろなことにチャレンジしなかったり、アウトドアをしなかったりするのは本末転倒です。もともとインドアが好きならかまいませんけれど。わたしはインドアでしたが、彼氏や友だちの影響で海で泳いだり、山に行ったりするようになり、遊ぶことは勉強よりも楽しいと知りました。バッティングセンターにも行きました。体を動かすのは喜びが湧くのだと知りました。
シミはわたしが病と闘って来た証拠です。それを見て、あれこれいう人は、そのことで、人の心につけ込む商売をしている人です。
シミに着目して、ロハスとかヨガとかエコとか言っている人はたいてい怪しいです。
わたしは科学大好きです。不思議なことも好きです。どちらか一方の世界を否定する人は、世界が狭いのです。
西洋医学が得意としていること、東洋医学が得意としていることは違います。どちらかを否定するのではなく、両方を取り入れるのが賢いです。それらは補い合うことができます。
わたしは愚かです。そして、賢いです。その二つは二匹の蛇が尾を噛み合って円になるようになりたっています。わたしは賢いから愚かで、愚かだから賢いのです。
わたしはシミを長年受け入れられませんでした。失敗、醜い、その証として。晴れやかな人生が送れないことの象徴のように感じていました。
けれど、わたしのシミは人の心を映すのでした。ニキビを気にしている人はわたしの肌のなめらかさをうらやましがって、シミを見ません。わたしを金づるに引き込める、精神的に支配したがる人は、わたしのシミを見ます。シミを気にしている人はわたしのシミを気にします。シミを気にしていない人は視界に、シミが目に入らないようです。
けれど、シミはただのシミです。人生の失敗でもなく、晴れやかな人生を送れない理由でもないです。わたしのシミを指摘する人はいます。そうした人は下品です。医者でもなく治せもしないのに言ってくる人は、狂っています。言う理由がないからです。
シミから広がる話題なんてそうそうないです。そうそうないのに、言ってくるということは、予測する能力が低いのでしょう。
(Dr.シーラボのシミを消すやつはけっこう効きました。そういう情報交換なら大丈夫です)
今日、会社の先輩に「今日は大きめの服を着ていないね。とても素敵だね。それなら生徒さんの親御さんと会っても大丈夫だね。すっきりして見える」と言われました。
そこで、パーソナルデザインのことを話しました。先輩の娘さんも今度受けるのだと言っていて、それを楽しみにしているとのことでした。
わたしは長い間、服に興味を持つのは悪いこと、特別な人が興味を持つのだと思っていました。
だから、おしゃれになりたくて、でも、お店が怖くて通販で闇雲に服を買っては着ないまま捨てて、お金の無駄をずいぶんしました。おしゃれになりたくてもやり方がわからないと、服をコレクションするように買ってしまい、自分に似合う洋服の選び方をまったくわからないので、そういうことをしてしまうのです。
わたしの母は化繊の服を禁じていました。だから、わたしは綿の服ばかり着ていました。
おそらく、わたしの母も感覚過敏があったのでしょう。
自分がいやなものはわたしにとってもいやなはずだと思い込み、自分とわたしとの境界線がなかったからです。
パーソナルデザインの先生は、化繊でもさらさら、すべすべとした服を選んでいて、ゆったりとしててもきちんとした服を教えてくれました。今の親は、とにかく、肌が見えないようにと言うばかりで、わたしはどうすれば良いのかわからずサイズの合わない大きい服ばかり選びました。彼らの言うことは、普通の人にとっては十分適切なアドバイスだったと思うのですが、わたしには抽象的すぎて理解できなかったのです。だから、わたしはいつもあか抜けないカッコウをしていました。
パーソナルデザインの先生は、体を締め付けず、けれど、すらっとする服を選んでくれました。わたしが嫌いなちくちくした服は選びませんでした。ふわっとしたもの、さらっとしたもの、素材がぽこぽこしていて、触り心地のよいもの。キラキラしたネックレス。ポップな模様のポシェット。綺麗な色の口紅。ほんのりと塗られたファンデーションで十分なこと。ここまで具体的に教えてくださった人は今までいません。バッグにアクセサリーをつけてもいい、ブローチを着けても良い、ネックレスはとても似合うから必ずつけて、綺麗な色の靴を履いて、と教えてくれました。
わたしには許されることが必要でした。わたしの母は、服を気にすることを「ファッションショーに行くわけでもないのに」化粧をすることを「顔に塗りたくって」という言い方をする人でした。ヒールのあるものを履くと、足が痛くなると言って顔をしかめました。わたしの足なのに。
友だちは、隠しても、隠れないよ、隠す方が大きく見えてしまうよ、と教えてくれました。
そして、パーソナルデザインのことや骨格診断のことを教えてくれました。
実母に服のお金をもらったことは一度もありません。いえ、それは間違っていました。就職のためのスーツ一式はそういえば買ってもらいました。一度もではありませんね。そして、父もコートを買うお金をくれました。感謝しています。父はスーツも買ってくれました。ワンピースも買うお金をもらいました。今の母は、靴をたくさん選んでくれました。わたしの友人は、服の選び方を教えてくれました。プレゼントしてくれた人もいます。
徹夜で、リボンをたくさん作って送ってくれた人もいます。
化粧品をくださった方もいます。口紅やグロス、ファンデーション。
思い出せば悪いことばかりでもありません。
思い出せて良かったです。今の親は良くしてくれています。
友だちも親切です。
小学校時代は服のことでずいぶん恥ずかしい思いをして過ごしました。
ブラジャーも買ってもらえず、いつも困りました。
服装に関しては何も教えてもらいませんでした。彼女自身何も知らなかったのだと思います。
今は大人で、お金を出すことができます。
わたしは反動で隠れて服を買うことになりました。隠れて買うので、楽しむのではないし、どこにも着ていきません。着られない服をたくさん買いました。無駄でした。苦しかったです。
今でもそういうところがあります。
彼氏は買ったものを秘密にしないでほしいと言います。わたしの金銭管理に問題があることは、彼は既に知っていて、心配しています。彼はわたしに隠さないでほしいと言います。正直に言っても、怒りません(当たり前ですが)。バカにしません(当たり前ですが)。あきれません(当たり前ですが)。でも、わたしにはその当たり前のことが長年なかったのです。わたしに何かを言う資格はないから、と彼は言います。そして、わたしが困っていると言いさえすれば、どうすれば良いか教えてくれます。自分もできていないけれどと言いながら。
彼はそういえば、わたしの服が変だとか、シミがあるねと言ったりとか、言ったことがありません。わたしが満足していればそれで良いと言います。これが対等な人間関係か、と思います。
わたしは今まで男性と対等な人間関係を築いたことがなかったのだと思います。お付き合いしていた人とは、保護者と被保護者の関係になることが多く、わたしが反発して離れることが多かったです。保護者になると、人は横暴になります。時間を守らなくなり(これは今の恋人もしますが)、約束も破ります。彼らには自負があるからです。プライドが高いのです。下に見た人間に対して人は何でもできるのだと、わたしは学びました。お金や若さや誠実さをずいぶん奪われました。倫理観も減りました。
わたしはヒプノセラピーを受け、ゲシュタルトセラピーを受け、パーソナルデザインも受けました。
わたしは自分にお金をかけました。そして、自分が今まで溜めて来た怒りや呪いを消化しつつあるのだと思います。
わからなくて、恥ずかしい思いをしたことも、今はお金を出して、調べたり友だちに聞けば専門家にアクセスでき、的確なアドバイスを、わたしの自尊心を傷つけないように、それどころか、勇気づけて、教えてくれます。
キラキラしたものなんて、わたしには似合わないと思っていました。
淡い、美しい衣服がわたしに似合わないと思っていました。
フリルやレース、チェック。ビーズやパール。おもちゃのようなお菓子のような、甘い色彩の服装。以前なら無駄だと言われただろう、バッグチャーム。
今の彼はレディースの売り場にも平気でついてきて、痩せたらきっとこれが似合うよ、と言ってくれます。この前はパールのビーズがついた、きらきらしたピンどめをプレゼントしてくれました。顔周りが華やかになります。髪も切ってくれました。いろいろな人に褒められます。
わたしは美しいのか?ブスなのか?わたしの顔立ちに足りないものは何か、余分なのは何か?
今までそうして鏡をこっそり見ながら悩んだものでした。(鏡を見ているところを見つかると実母には怒鳴られました)
わたしは美しいです。客観的にはそうでなくても、わたしにとっては十分美しい。
似合う服を着て、似合う化粧をすると、それは引き立ちます。嫌いだと思っていた部品も、顔の流行が変わって、長所だと言われることが多くなりました。ぴったりした装いをすると、欠点をわざわざ探してみる人はいないのだと知りました。調和していさえすれば、その人は美しいのです。
わたしはアクセサリー売り場が苦手でした。何もかもが欲しくなって苦しくなって、小さな鏡に自分が映るたび怯えて、こんなわたしに似合うものはないと思い、恥ずかしさのあまり逃げ出すことが多かったです。
でも、今は欲しくても買わなくても大丈夫、と思いながら、美しいものをぼうっと眺めることができます。店員さんとも、少し、信頼しながら話すことができるようになりました。それはとても楽しいことです。
わたしは息を吸いすぎて、過呼吸になります。普段からも呼吸が浅いと、薬局の人に教えられました。息を吸うためには、吐かなくてはいけません。まず、深く吐いて、それから、吸うべきです。
わたしは親を理解することができません。きっと、親もわたしを理解できません。彼らの戸惑いをわたしは想像するべきです。そして、その一方で、彼らが間違うこともあるのだとわかっていることが必要です。わたしは自分が間違えることを知っています。ただ、わたしは相談するのは、わたしの友だちになったのです。彼らはそれがまだ実感できないのではないかと思います。
わたしに必要なのは息を吐くことです。
アクセサリーを我慢することでもなく、惨めな服装をすることでもなく、禁欲的に生きることでもありません。
良いものを長くつかうよりも、安いおもちゃをとっかえひっかえつかいたいと思っています。そのときの気分や流行に流されたいのです。綺麗なもの、華やかなもの、うわべだけのもの、そういうものに今は惹かれます。
最初から、正解にたどり着くように生きてはいけなかったのです。流行に左右されないようなものを選ぶ、ということはわたしにはまだ早かったのです。わたしは人生を楽しみたいのです。
お金と、楽しむことのバランスはこれから学んでいきたいです。
慌てないで、ゆっくりと、人生を自分の手に取り戻すことをしたいのです。
わたしは忠告を求めます。しかし、いらないタイミングでの忠告は拒みます。それは、わたしの世界を狭くすることとイコールではありません。予期せぬことで削られるエネルギーを自分の嬉しいと思うこと、楽しいと思うことに注ぎたいからです。
キラキラしたものはわたしの心を奪います。柔らかいもの、優しいもの、癒すもの。
わたしがきちんと息を吐ききることができるのはいつになるでしょうか。
わたしは、されていやだったことばかりを覚えていやすい脳をしているようです。
してもらった、良いことも思い出せるようになりたいです。