正しいこと、正しくないこと

わたしは週刊金曜日の件で正しくないことをたくさんした。

そのひとつは、支援者の一人である、濁山ディグ太郎をいちびる記事を書いたことだ。

週刊金曜日の件はだれもがだんまりを決め込み、無視して、わたしが諦めるのを待っていて、わたしにとっては全然終息していない。

わたしは、濁山ディグ太郎も、被害者氏のことも何も知らない。十六日に、記事を書くとき、初めてグループチャットで話した。

そのとき、初めて話したのに、被害を打ち明けられ、記事を書くことを求められた。

わたしが書く予定だったのは、簡単な紹介記事のつもりだったけれど、被害者が、それ以上のことを望んだ。

わたしは、自分がしてほしかったこと、つまり、被害者に寄り添うことをしたかった。

だから、言われるまま、注文に応じた。

わたしの事情の中では、断ることが難しかった。

性暴力サバイバーだから、性暴力に遭った人をむげに扱うという選択肢がなかった。それがわたしの弱味だから。

記事を書いたあと、暴言を吐かれ、それについて、いくら、対応を求めても、黙殺され、のれんに腕押しなので、それぞれの人物について、調べた。

いろいろわかった。

他の人には無意味に見えるだろうし、のれんに腕押しならば馬鹿馬鹿しくなって、諦めるという選択肢もあるのだろうし、関わるのがいやならやめたら、という意見があるのも知っている。

あれを暴言だと受け取らない人もいる。なぜ、わたしが、怒っているのかわからない人もいる。

誉めてもらった、すごいと言われた、ならいいじゃん、という人もいた。

でも、大事なのはわたしの感じ方だ。

そして、わたしの気がすむことが大事だ。

わたしはひどいことをされたと思っている。

だから、ひどいことをしてきた人を今後の参考のために知りたかった。さけることができるようになるために。

それで、唯一反応のある、濁山ディグ太郎を揺さぶってみた。
反応といっても、話し合いに応じるということではなく、ブログを閉鎖モードにする程度のことだ。

でも、わたしが何か書くことで、読んでいることがわかるから、調べた。

調べたことは本人がオープンにしていたことだから、違法性はない。違法性がなくても、倫理的に問題があると考える人がいるのも知っている。

でも、わたしの感じ方を優先すると、先に倫理を放棄したのは、被害者側なのだ。

だから、わたしは自分が狂わないようにするために、正しくないことをした。

わたしが狂うと、パートナーは悲しむ。

だからふざけ半分でも何かして気をまぎらわせたかった。

ふざけて扱ったから、わたしへの信頼やイメージを失ったり、わたしがそんな人間なのだとがっかりしたり、心配するのをやめようと思う人だっているだろう。

それがわかっていても、わたしは調べて、ネタにしたかった。

相手に嫌な思いをさせて、わたしの苦しみを知らしめたかった。

彼らはわかろうとしないから、されて嫌なことを避けるために、話し合ってくれる可能性が少しでもあればと思った。

わたしは全然正しくない。
でも、わたしなりに、生きていかないといけない。

わたしのなかにたまった苦しみを解放したかった。

濁山ディグ太郎を調べて、揺さぶったことで、少し気がすんだ。

どのみち、話し合っても、わたしの怒りを理解してくれるような度量がない人々なのはわかっていた。

それでも、わたしは自分の落としどころとして、気がすむ、という状態になりたかった。

正しい、正しくないというジャッジは他の人が言えばいい。わたしがわたしをジャッジすることも、他の人がわたしに正しさを説くことも受け入れがたかった。

相手は正しさを放棄して、考えることをやめている。

同じところまで落ちなければ、わたしは納得できなかった。

みなさんには意味不明な行動でも、あきれられても、わたしには意味があった。

わたしだけでも、わたしのことを尊重しなければ、わたしは生きていけない。

生きるために、何もかも放り出した。

わたしには全然余裕がない。

正しいことも正しくないことも、その境目も、他の誰かに任せたい。

わたしの体を生かすためのことを、だれも代わりにできない。

だから、わたしは間違っていることでもした。

最初に、正しくない対応をとられたから、わたしが正しさをキープすることが、不毛に思えた。

そのことは、うまく説明できなかった。

わたしがバカなことをするのは、わたしにとって、生きるために必要なことだ。

見逃してほしい、放っておいてほしい。

心配しているひとは、はらはらするだろう。

でも、心配もやっぱり自分のためにするものだから、わたしがその期待に応える必然も余裕もないのだった。

だから、昨日、皆さんにとって、意味不明な、濁山ディグ太郎についての記事をリンクした。

皆さんに意味不明であっても、わたしには必要だった。

わたしを、正しいか正しくないか裁く前に、傷ついてボロボロの人に、どこまで要求できるのか、少し待ってほしい。

いや、待たなくてもいい。

あとで後悔するよと、先回りして、わたしを縛らないで。

わたしには先がない。

今だけだ。

怒っていたら何をいってもいいのかとか、つらかったら、酔っていたら、とか言われたけれど、わたしのラインはわたしが決める。

わたしから失敗を奪わないで。

先回りして正しさを説かないで。
ひどいことを言うと、あとから後悔するのは自分だと言わないで。

わたしは今精一杯だ。

大袈裟だと言われるが、わたしは生きていたい。

わたしが一人で生きていくだけだ。
わたしは期待に応えられない。
それだけのことだ。

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